逮捕後に「結婚申し込み」「1万通のファンレター」が…90年目の「阿部定」事件 “伝説の妖婦”の素顔
運命の男
23年(大正12年)9月1日の関東大震災後は、富山の芸妓屋を経て、信州飯田の同じく三河屋へ。
「おい、誰でもいいから、お座敷へ行ってくれないか」
主人が、芸妓らが待機する2階座敷に声をかけると、定が上から怒鳴り返す。
「“でも”付きの客の座敷なんか行けるか」
プライドだけは高かった。やがて検黴(性病検査)で、職業病ともいうべき梅毒を患っていることが判明。そんな生活に嫌気が差したのか、次に辿り着いたのが、ご存じ、大阪は飛田遊廓の御園楼。
「どうせ体を売るなら、芸妓なんてまどろっこしいものじゃなく、最初から娼婦になってやる」
その後、飛田から移った丹波篠山の遊廓から逃亡して、娼婦の生活にいったんのピリオドを打ったとき、神田の家を出てから10年が過ぎていた。流れ着いた神戸では、結局、現在のデリバリーヘルスのように電話で呼び出されて春をひさぐ高等淫売をし、29歳のときには、3人の旦那を渡り歩きながら妾生活を1年間。
しかし、そんな生活も長くは続かず、名古屋に行き、料理屋で女中をしていたときに出会うのが、説教好きの商業高校の校長先生。
「おまえはもっと真面目にならねばならん。今からどこかへ奉公して、料理見習いから始めてはどうだ」
昭和11年2月10日、定は東京・中野区新井のうなぎ割烹・吉田屋へ住み込むようになる。ここで店主と女中として出会うのが、運命の男、石田吉蔵。定31歳、吉蔵42歳の早春だった。
岡惚れ
「あら、いい様子の男振りじゃないの」
ひと目、吉蔵を見るなり、岡惚れしてしまう定だった。それでもまだ、最初は名古屋の先生との約束どおり、名も“田中加代”と改め心機一転、性根を入れ替えて働くつもりだった。しかし、吉蔵もまた、立ち姿が粋に見えるよう着物の裾に細工を施して毎夜飲み歩くような、名うての遊び人だった。
やがて二人は、店を夫に代わり切り盛りしていた妻のトクの目を盗んで、客のいない座敷や電話室で密会を重ねるようになる。
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