「私がいなくなったら、警察に『オウムの仕業』と言って」 最後まで妹を守り亡くなった假谷清志さん監禁致死事件 記者が語る捜査機関の“負の連鎖”

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捜査機関の“負の連鎖”

 坂本弁護士一家殺害事件(89年)、松本サリン事件(94年)が起きていながら停滞していたオウム事件の捜査が急展開したのは、95年2月の目黒公証役場事務長・假谷清志さん監禁致死事件がきっかけであったといわれる。

 95年までオウムは警視庁管内、つまり東京都内では事件を起こしていなかった。假谷さん事件が警視庁管内で初めて起きた事件といわれることもあるが、それは正確ではない。実は假谷さん事件より前の1月4日、港区でオウム真理教被害者の会(現・オウム真理教家族の会)会長である永岡弘行さんが、信者から猛毒のVXの液体をかけられ九死に一生を得た事件が起きていたのだ。永岡さんは今でも重い後遺症に苦しんでいる。

 関係者によると警視庁は当初、この事件について「農薬を使った自殺未遂」などとして事件性がないという判断ミスをしている。永岡さん事件の初動捜査をしっかりしていれば、假谷さん事件も防げたのではないかという思いが湧く。一連のオウム事件ではこうした捜査機関の“負の連鎖”が繰り返された気がしてならない。

遺骨は硝酸で溶かされ、湖に

 假谷さん事件の発端は、假谷さんの妹が93年10月ごろにオウムに入信し、数千万円を教団に布施したことだった。財産を持っていると分かったオウムは、妹の所有物だった目黒公証役場の土地・建物(当時の価格で約2億7000万円)を含めた全財産を布施して出家するよう強要する。妹は教団から逃げ出し、兄の假谷さんにかくまわれることになった。東日本地区の信者の管理をしていた女性幹部がこの件を麻原に報告すると、妹の所在を聞き出すため假谷さんを拉致するように指示したのだ。

 95年2月28日夕方、目黒駅近くの路上で、目黒公証役場から出てきた假谷さんを信者らが襲い、レンタカーに押し込んで上九一色村の第2サティアンに拉致した。医師であった中川智正と林郁夫は、自白剤・チオペンタールを投与する「ナルコ」という方法で妹の居場所を聞き出そうとしたが、假谷さんは絶対に明かさなかった。假谷さんはチオペンタールの過剰投与により亡くなる。

 証拠隠滅のため、假谷さんの眼鏡など金属類は濃硝酸と濃塩酸で溶かされてしまう。遺体は中川らがマイクロウェーブ(大型の電子オーブンレンジ)を応用した焼却炉で焼き、遺骨と灰は木片でたたいて粉砕した上、硝酸で溶かし本栖湖に流されたという残忍な事件だ。遺族の無念たるや、察するに余りある。

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