東出昌大は「三島を読んでいなければ今の自分はなかった」 三島由紀夫生誕100年…著名人たちが語り尽くす魅力とオススメ作品

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【全2回(前編/後編)の前編】

 今年は三島由紀夫生誕100年にあたる。小説から戯曲、評論にいたるまで、希代の天才は幅広いジャンルにわたって数々の傑作を残し、今日まで多くの人々に読み継がれている。三島を愛する各界識者に「私の好きな作品」について、その魅力を語ってもらった。

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――まずは、「三島の作品を演出するためには、凄絶な闇に挑む覚悟が求められる」と語る演出家・宮本亞門氏にその魅力を聞いてみよう。

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『金閣寺』『癩王のテラス』『午後の曳航』を演出して思うのは、三島由紀夫は作品に登場する役に「三島由紀夫」そのものを入れ込んでいることだ。だから作品を上演するには三島の人生や思想に触れなければ演じることも演出することもできず、作り手は凄絶な闇に挑む覚悟が求められる。

 その意味でも『サド侯爵夫人』と『卒塔婆小町』の2作には底知れぬほど恐ろしい闇が潜んでいる。例えば映画「憂国」の割腹シーンで能舞台に漆黒の墨のような血が滴り染み付いていく様が、寒気がするほど美しいように、「聖(清らか)」と対極の「猥(わい)(汚らわしい)」の両極がぶつかり、美が生まれる瞬間が存在する。

『サド侯爵夫人』は戯曲として完璧で、サドを舞台に登場させずに見事にサドを炙り出し、彼と周りの影響されていく女性たちを魅了し変化させる。まるで三島由紀夫がサドであるかのように。

闇にまみれた2作品

 また『近代能楽集』に収録の「卒塔婆小町」は、

 詩人の青年「君が美しかった」

 老婆「かったじゃない、今もべっぴんだよ」

 から始まるせりふが見る者を見てはいけない世界へ引きずり込む。三島は言う。

「小町の美は、まったく、主観的な美であって、客観的な美ではない。老婆はそのままで美しく見えて来なければならない。すべての幻影のめざましい変化は、詩人の主観をとおして表現されなければならない」

 昨今、人々の主観が見えなくなり、客観性しか信じられなくなっている。そんな時だからこの闇にまみれた2作品は輝きを増して見える。(来年「サド侯爵夫人」上演予定)

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