東出昌大は「三島を読んでいなければ今の自分はなかった」 三島由紀夫生誕100年…著名人たちが語り尽くす魅力とオススメ作品

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「通俗というものにすごく憧れていた人」

――次に、「三島は通俗というものにすごく憧れていた」と指摘するのが、作家・門井慶喜氏だ。

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 大学生だった20歳の頃、三島にはまって、新潮文庫になっている作品は全部読みました。その中で選んだ2作は共通するところがあって、三島が「通俗」というものに一生懸命取り組んだものではなかったかと思います。

『潮騒』は古代ギリシャ文学の「ダフニスとクロエ」に材を取って、日本の島の若い男女が互いに恋してという物語ですが、どんな複雑なストーリーでも書ける人が、性欲すらほとんど表に出てこない男女のプラトニックな恋愛を、芸術的な文章でもって通俗的に描いている。

 戯曲の『鹿鳴館』は明治の鹿鳴館が舞台で、伊藤博文夫人を模した伯爵夫人が主人公です。物語は、三島本人も言っていますが典型的なメロドラマです。

 夫を暗殺しようとする自由民権運動の自由党の若者が、かつて自分が情人との間に産んだ息子らしい、しかもその情人は、いまや自由党の大物になっている……。『潮騒』に登場したあの純粋無垢な島の若者が、劫(こう)を経たらこうなるのかなという「ド・通俗」です。三島という人は、芸術至上主義と見られがちですが、この2作から、通俗というものにすごく憧れていた人ではなかったかと思います。

「健気なお坊ちゃん」

 子供の頃から学習院で純粋培養され、古典文学をたくさん読んできた三島には、一般の言語生活が分からなかったと思う。そういう人が、事もあろうに小説という俗の俗なる形式に魅了され、自分も小説を書こうとしたときに、おそらく後天的に通俗というものを勉強しなければならなかったのではないか。

 他人の機嫌に敏感な人ですから、ほんものの芸術至上主義では読者との間に道ができない、共感されないと考えたのでしょう。

 今の僕にとって三島という人は、健気なお坊ちゃんという感じです。そういう人があの乱雑な戦後の時代を生きたということ自体が「もののあわれ」ですね。

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