創業は「関ヶ原の戦い」の4年前! 「東京産」を貫く酒舗「豊島屋本店」は“居酒屋のルーツ”でもあった

  • ブックマーク

 今年は、“昭和100年”にあたる。その間、日中戦争、太平洋戦争、原爆投下、敗戦、GHQによる占領、講和独立、高度経済成長、1964年東京五輪、1970年大阪万博、1972年札幌冬季五輪、石油ショック……と、怒涛の出来事がつづいた。そんな激動の100年間を生き抜いた「東京の食」を紹介する新シリーズ。その第1回は……。

 佐伯泰英の人気時代小説「鎌倉河岸捕物控」シリーズ(ハルキ文庫)の舞台は、現在の内神田にあった運河の陸揚げ地・鎌倉河岸の酒問屋「豊島屋」である。江戸時代の名所案内書「江戸名所図会」に描かれた光景を参考にしたという。

 その第6巻『引札屋おもん』の著者あとがきに、こんな一節がある。

〈断るまでもなく小説は虚構の産物、物書きの妄想、筆任せである。(略)だが、私の頭の中には、現在も豊島屋さんが盛業中という想像力が欠如していた。(略)第二作目の『政次、奔る』を出した直後か、豊島屋さんの直系、吉村俊之さんから、/「あれはうちが舞台です」/とのお手紙を貰ったとき、/「わああっ」/と仰天した。〉

 つまり、てっきり江戸時代の資料をもとに想像で書いていた、その老舗が、いまでも脈々とつづいて営業しているとは、さすがのベストセラー作家も気がつかなかったというわけだ。

《昭和100年を生き抜いた「東京の食」》第1回は、100年どころか、400年以上もつづいている、東京最古の酒舗「豊島屋本店」である。

人気を集めた白酒

「わたくしどもは、佐伯先生の小説で描かれているように、江戸の中心部である神田・鎌倉河岸で、酒屋を始めたのが起源です。1596(慶長元)年に、豊島屋十右衛門が創業しました」

 と語るのは、豊島屋本店の第16代社長、吉村俊之さんである。

 1596年といわれてもピンとこない方も多いだろう。ちょうど、豊臣秀吉による朝鮮出兵の時期で、4年後が関ヶ原の戦い。まさに戦国時代のクライマックスである。

 創業してすぐ、江戸城の築城大工事がはじまり、荷揚げ場となった鎌倉河岸は、多くの労働者が集まる場所になった。

「特に人気となったのは、白酒です。甘い味の、お米の低アルコール・リキュールで、肉体労働で疲れた身体に合ったようです。女性にも大人気でした。お雛まつりで白酒を呑む習慣も、豊島屋で定着したとの説があります。販売日には、江戸中からお客様が押しかけ、昼までに1400樽が完売したとの記録が残っています。佐伯先生も参考にされた『江戸名所図会』にも、お雛まつりでたいへんな賑わいを見せている豊島屋の店頭が描かれています」

 また、豊島屋は、関西から運ばれてくる上質な清酒、通称〈下り酒〉も販売するようになった。灘の〈剣菱〉、伊丹の〈白雪〉などの名前が、古い台帳に書かれているという。

「それらの酒代は、とても安く設定されていました。というのも、空いた酒樽を、醤油や味噌の蔵元に卸す、一種のリサイクル・ビジネスで十分な利益を出していたからです。そのため、店頭で気軽にお酒を呑むお客様が増えてきます。いまでいう“角打ち”ですね。そこで、豆腐に味噌を塗って焼いた〈豆腐田楽〉を、おつまみとして出しはじめました。これが大好評で、日本における〈居酒屋〉のルーツとの説があります」

 つまり、〈酒屋〉の店頭で、つまみを食べながら呑んで〈居〉つづけるから、〈居酒屋〉。それは、この豊島屋からはじまったのだ。

「その後、豊島屋は幕府御用達となり、明治時代には、清酒の醸造も手がけるようになりました。そのころの蔵は兵庫の灘にありました。のち昭和初期に、東京・東村山市にあった古い酒蔵を譲り受けて「豊島屋酒造」を設立し、すべての拠点を東京に移すことになります」

 と、順風満帆に発展してきた豊島屋だが、近代になり、昭和ともなると、苦難の時代がやってくる。

次ページ:創業以来の「3つの危機」

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。