「足を使って取材しろ」「当事者でもない奴が記事を書くな」「偏向報道だ」…“フリー記者”はSNS上の“批判”をどう受け止めているのか
前回、フジテレビの記者会見の様子から「フリー記者」の実情を紹介した。筆者自身が携わっている仕事でもあり、もう少し踏み込んだ内容を続編として書くことにした。前回記事のコメントでも散見されたワードや、普段の活動から感じる「メディアや記者に対する世間の誤解」について紹介したい。
【写真】批判の対象であっても、取材相手には最低限のリスペクトは必要なのでは…様々な問題を残したフジテレビ会見
「活動家」といわれるジャーナリスト
「指摘するのは誰にでもできる。そんなに主張するなら口だけじゃなくそれやってみろ」
普段、問題提起をする記者たちには、こういった声が向けられることがしばしばある。
なかには問題解決に向けて、実際に行動するジャーナリストもいるのだが、彼らに対しては、こんな言葉がよく掛けられる。
「あいつはジャーナリストではなく、活動家だ」
前回の記者の実態を紹介した記事にも、この声が散見された。
確かに本来、ジャーナリストたちの仕事は、「取材」であり「言論活動」だ。権力の監視や問題提起をするのが役割であり、その解決のために具体的な行動にまで踏み込むのは仕事の範疇ではないかもしれない。
それでも彼らが問題解決に向かって行動しようとするのは、決して不思議なことではない。元々、問題意識が高いがゆえに就いた職業であるうえ、第三者として長期間、現場に近いところから問題と向き合っていれば、時に当事者よりも解決策がクリアに見えてくることさえある。また、行動することで問題がよりクリアになるケースもあるため、ジャーナリストにおいては行動が伴うケースはそれほど珍しいことではないのだ。
ただし、気を付けなければいけないのは、取材対象や論評する相手方との関係性だ。利害関係によって言論活動が委縮することはあってはならない。
例えばブルーカラーの労働問題について書くことが多い筆者の場合、運送や製造、建設業界からの講演依頼がよくあるが、依頼を受ける際は決してその業界や企業を喜ばせるための話はしない。企業製品のPRも一切しないし、逆にこちらからPRをすることもない。あくまでも社会やその業界のための問題提起、取材・データに基づく現場の課題の指摘をすることを前提としている。
それは前回記事でも紹介したとおり、ジャーナリストは権力だけでなく「大衆」からの独立が必要だからだ。
ゆえに、こうして真実を忖度なく指摘することで真実性を担保しているジャーナリストは、現場のことを思いながらも孤独になりがちなのだ。
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