兄の娘との背徳的な関係、妊娠を知りパリへ逃亡…島崎藤村は実体験を描いた“問題作”をなぜ執筆したのか
藤村、41歳の過ち
そのことが起こったのは明治45年、木々の緑が萌えだした5月だった。前掲「悲劇の自伝」でこま子は、藤村と初めて通じた深夜の記憶を、朧気な表現でたぐっている。彼女は就寝中だった。
「私は、ひどく打撃を受けた脚を感じた。手を感じた。顔を感じた。(中略)それがなんであったか分らない。さうしたことが、意識されて行ったのはそれからであった。わたしの前に展かれた未知の世界は叔父にあっては、狂ひであったらう」
いつものように、夜更けに家に戻った藤村は、寝息を立てる子どもたちの脇で思いを遂げると、「夜半は冷えるからよくかけておおき」という優しい言葉を残して、2階に上がっていったという。藤村は41歳、こま子は20歳であった。関係はその後も続き、一年後、こま子は身籠る。
島崎家の縁者で精神科医だった西丸四方は、著書『島崎藤村の秘密』で、姪に手をつけた藤村の性分をこう言う。
「春樹様(藤村の本名:筆者注)は気の小さい、芸者にも手出しのできない様な方でしたので、陰気な、手近な娘に手出しなさる様になったのでございましょうか。そのくせ他人に知られたら大変と、身近な女の方々に覚られはせぬかと、どれ程気をつかわれたことでしたか」
こま子の妊娠を知り、パリへ逃亡
往生した藤村は、こま子の妊娠を隠し通したまま、日本から逃げ出す。彼は、版権の譲渡や原稿料の前借りによってまとまった金を作ると、金と一緒に、彼女と2人の子を次兄に託して、ひとりパリに旅立ったのだ。
あとの子はそれぞれ木曾の義兄の家、常陸の乳母の家へとあずけた。大正2年4月のことだ。そうして、船中で次兄にあてた手紙を書き、ようやくことの次第を打ち明けたのである。
『新生』の記述における次兄の返信は、「出来たことは仕方がない。お前はもうこの事を忘れてしまへ」という内容であった。次兄は「これは誰にも言ふべき事でないから、母上はもとより自分の妻にすらも話すまいと決心した」と言ってよこしている。藤村の出発から4カ月後、こま子は密かに男児を産み、子は広助の手はずですぐに里子にだされた。
パリで3年の歳月を費やして帰国した藤村は、重い罪の代価を払わされることになる。職を持たず、暮らしにことかく広助一家8人の暮らしが、一手に藤村の背にもたれかかってきたのだ。
この時期、広助からの金の催促に苦しむ一方で、藤村は再びこま子と深みにはまる。『新生』のその場面には、「最早夫であり妻であるときがやって来たかのような楽しい心も起こってきた」とある。
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