「枕元にチップ」は今や日本人だけ? “アメリカ人に鼻で笑われる”謎習慣(古市憲寿)

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 枕銭(まくらせん)という言葉がある。宿泊したホテルの枕元にチップとして幾ばくかのお金を置くという習慣だ。昔は僕も律儀に実践していたのだが、友人のアメリカ人に鼻で笑われてからはやめてしまった。

 その友人いわく、チップは感謝の印というよりも、交渉材料として使うべきだという。彼がホテルでチップを払うとしたらチェックイン時だという。提示を求められた身分証明書などと共に、さりげなくドル紙幣をフロントスタッフに渡す(金額はホテルのレベルによって変える)。そうすると、かなりの確率で部屋をアップグレードしてくれたり、何かの優待チケットをくれたりするという。

 フロントスタッフは、宿泊者の部屋を替えても自分の懐は痛まないのに、チップがもらえてうれしい。宿泊者からすれば正規の値段よりも安くいいサービスを受けられる。両者が得をするというわけだ。他方で、枕銭を置いたところで、今さら部屋が替わるわけでもない。せいぜいアメニティーを余分に置かれるくらいで、チップの見返りとしては不足だ。実際、今でも真面目に枕銭を続けているのは、日本からの旅行者が圧倒的に多いようである。

 そもそも世界中で同じようにチップの習慣があるわけではない。むしろ先進国ではアメリカが例外的で(今のアメリカが先進国なのかは分からないが)、ヨーロッパではチップの習慣がない地域も多い。渡して嫌がられることはないが、義務でもない。観光地を観察していると、チップを渡しているのは大抵アメリカからの旅行者だったりする。

 もう10年以上前だが、ラスベガスに行った時、高級ホテルの車寄せでタクシーの扉を開けるだけの仕事が利権化していると聞いたことがある。タクシー利用者がチップに1ドルずつ渡すだけで、年間を通したらとんでもない収入を手にすることになるのだ。

 だがキャッシュレス化の波に押されて、アメリカでさえチップ文化が変容しつつある。バレーサービス(駐車・出庫代行)などチップが期待される場面で、客が現金を持ち合わせていないことも増えてきた。ラスベガスでは、タクシーの姿を見かけること自体がほぼなくなった。移動といえばまずライドシェアである。

 他方でレストランでのチップは、もはや義務であり、その相場がどんどん上昇している。夜にレストランへ行く場合、この頃では食事代の20%といわれている。最低時給が安いため、従業員はチップがないと暮らしていけないのだ。なぜ客が従業員の社会保障まで担わないといけないのか分からないが、一度根付いた制度の変革は難しいのだろう。

 チップの習慣のなかった日本でも、Uber Eatsを注文した時にはチップを選ぶ画面が出てくる。ここが日本のせいか、海外でのチップというよりも、寺社仏閣でお賽銭を入れるような気持ちで100円くらいを渡すようにしている。アメリカ人の合理的なチップと違い、具体的ないいことはまだ起こっていない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2024年4月18日号掲載

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