「裕次郎とオレと3人で、日本映画の斜陽化を遅らせることはできたはずだ」…小林旭が語った21歳「伝説のスター」の衝撃的な死

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 昭和35(1960)年、日本国内には7457もの映画館があった。邦画の封切本数は全体の約72%を占める547本。 まさに日本映画の黄金期である。銀幕の上で輝くスターたちも百花繚乱の様相を呈し、中には伝説になった者もいた。日本映画界に颯爽と現れ、わずか数年で不慮の死を遂げた赤木圭一郎はその代表格だ。若きスターとして将来を嘱望されていた21歳が、撮影の合間に乗車したゴーカートで壮絶な事故死を遂げるというニュースは、ファンと映画界を絶望に陥らせたという。小林旭が2005年に語った言葉から、赤木の往時の姿と事故の衝撃を振り返る。

(「新潮45」2005年9月号特集「昭和芸能史13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記、役職名、施設名等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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ディーンとは線の太さが違う

「赤木はその最期が似ているということから“和製ジェームス・ディーン”って言われてきたけれど、それはあくまでもあとからのこじつけだよ。確かに、日本人離れしたイイ男だったし、凄い奴だった。でも、線の太さが違う。ジェームス・ディーンのようにジーパンが似合い、フィーリング的には一緒でも、赤木のほうがはるかに脂っこく、線が太い。これは裕次郎の中にもオレの中にもない、いい意味でのバタ臭さだったね」

 小林旭は赤木の魅力をそう語り始める。わずか2年ほどの間に24本もの映画に出演して、非業の死を遂げた赤木圭一郎。その人気は、当時、石原裕次郎、小林旭と並ぶまでになっていた。

赤木は港町が似合う男

「オレと裕次郎と赤木を比較すると三者三様で実に興味深いと思う。たとえば、裕次郎は都会的だ。どこか甘ったるいボンボンのくせして結構、要領がよく、世渡り上手なとこがある。オレはというと、『渡り鳥』で演じてきたようにウエスタン、カントリー風のイメージだよ。

 赤木は港町が似合う男だった。横浜の風景なんかぴったりだろう。同じ海でも裕次郎はアロハシャツにヨットを操らせたらよく映えるだろうが、赤木はランニングシャツにジーパン姿で、港で汗まみれになって荷揚げ作業をしている様だ。汗の匂いを感じさせる健康的な輝きを持ち、男っぽかった。汗臭さという点ではオレにも通じるものがあるけれど、赤木のそれはまったく別物。オレはガッチリしたヒーロー役を演じてきたが、繊細で神経質ですばしっこい。人が一を言えば十をしてしまうくらいの動きをする。

 一方、赤木はドッシリと構えている。ボコッと叩くと、一拍置いて「ンッ?」ってとぼけることのできる図太さ、ズレを演じることのできるヒーローだ。そこに甘さも加わり、セックスアピールとなった。だから女性にモテたんだよ」

 赤木は本名の赤塚親弘のまま映画に出ていた時期があるが、赤木圭一郎としてのデビューが小林旭主演の「群集の中の太陽」(1959年) だった。その学生役の演技がきっかけとなり、一本立ちしていく。

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