「裕次郎とオレと3人で、日本映画の斜陽化を遅らせることはできたはずだ」…小林旭が語った21歳「伝説のスター」の衝撃的な死

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裕次郎の代役として現場入り

「オレとは2、3本一緒になったかな。亡くなってから、彼のポートレイトや作品など、その足跡をあらためて見させてもらったけど、その非凡さといったら……まあ間違いなく日本の映画界にとって大きな損失だったね」

 事故が起きたのは、昭和36年2月14日のことだった。12時を回っていた。ちょうど昼休みに入った頃合だ。

 赤木はこの日、「激流に生きる男 」(1962年)の撮影セットに入っていた。この映画は本来、石原裕次郎が主役を務めているはずだったが、彼がスキーで骨折し、代役として赤木にお鉢が回ってきたのである。

 撮影の合間に、ゴーカートの試作品が赤木の元に届けられた。ゴーカートと言っても遊園地で子供が遊ぶような代物ではない。ギアを入れると瞬時に時速40キロのトップスピードを出すことのできる競技用の車で、当時、欧米で流行していた。エンジンは100cc、右足でアクセルを、左足でブレーキを踏む。

倉庫の扉の枠に頭から突っ込んだ

 普段から英国車のMGに乗っていた赤木は、運んできた貿易商に薦められるまま、白いヘルメットを着用してサングラスをかけ、憧れのカートのハンドルを握った。ずっと欲しかったおもちゃをやっと手にした子供のように無邪気に喜び、人なつっこい独特の笑顔になっていたという。だが、それは彼がこの世に残した最後の笑顔になってしまったのだった。

 現場を目撃した前島照章氏(元日活上映館支配人)が言う。

「食堂から外に出たら、ちょうど赤木圭一郎がゴーカートに乗るところでした。車はバリバリってものすごい音を立てていて、バーって走り出した。そしたらすぐにドンと大道具倉庫にぶつかったんです。ほんの数秒のこと。

 ゴーカートだから急カーブは曲がれない。回り込まなきゃいけないんだけど、それが間に合わなかった。まずカートのフレームがぶつかって、それから赤木圭一郎が放り出された。そして倉庫の扉の枠のところに頭から突っ込んでいった」

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