“悪童”マッケンローを変えた「伝説の一戦」 観客の心をつかんだウィンブルドン(小林信也)

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“悪童”ジョン・マッケンロー(米)が登場したのは1977年。18歳で全仏オープン混合ダブルスに優勝。直後のウィンブルドンには予選から出て4強、準決勝で当時世界1位のジミー・コナーズ(米)に敗れたが、世界に鮮烈な印象を与えた。

 相手に背中を見せるほど上体をひねって打つサービス。果敢にネットに飛び出しボレーを決める。ストロークは突っ立って打つ。すべてが個性的で革新的。その上、とびきり行儀が悪かった。

 準々決勝の第1セットをタイブレークで落とした時、マッケンローは太腿にラケットを載せ、両手でへし折ろうとした。会場からブーイングが起こるとラケットを蹴り上げた。ニューヨーク・タイムズはこう書いた。

〈アル・カポネ以来の最悪なアメリカの顔〉

 マナーを重んじる人々が眉をひそめる一方、若者たちの共感の波もあった。悪童マックはコートに現れたロック・スターでもあった。

 この時彼はまだ高校生。校長が残りの授業を免除し、英仏への遠征を許してくれた。けれどまだ専門をテニスと決めてはいなかった。サッカーも得意で、芸術的なフットボーラーだった。冬は週2回しかコートに通わない。一足早い卒業旅行がマッケンローをテニスに向かわせたのかもしれない。

 スタンフォード大に入り、NCAAタイトル(全米学生選手権)を取ると大学を中退しプロに転向。

 78年、79年のウィンブルドンは1回戦、4回戦で敗れたが、79年秋の全米オープンは決勝でビタス・ゲルライティス(米)を破って初制覇。満を持して80年のウィンブルドンに臨んだ。

繊細な感性と深い技術

 コナーズに代わって世界一の座にいたのが“氷の男”ビヨン・ボルグ(スウェーデン)だ。ほとんど表情を変えず、余計な声も発さず、クールに対戦相手を打ち負かすボルグと“悪童”マックはあまりに対照的だった。

 ボルグは、サーブ&ボレー全盛の時代にベースラインでの打ち合いに持ち込み、守備的にも見える戦法で敵を仕留めた。鋭いトップスピンをかける独特の打法は、ボールが重くなり、ラケットがまだ木製の時代に有効だった。相手は一打一打ずっしりとのしかかる打球の威力に圧され続けた。

 そのボルグにマッケンローは心酔していた。78年ウィンブルドンで着たのはボルグと同じフィラだ。75年全米オープン、ボルグの試合でボールボーイを務めた栄誉は16歳の彼にとって何より誇らしい思い出だった。

 マッケンローはただの暴れん坊ではなかった。繊細な感性と深い技術を行儀の悪さの裏に隠しているもう一人の“天才”だ。

 テニス誌元編集長スティーヴン・ティグナーの著書『ボルグとマッケンロー』の中に、コーチのトニー・パラフォックスがマッケンローに「とにかくストロークを短くしろ」と教えた逸話がある。ボルグが開いたグラウンド・ストロークの流れに抗うことが突破口であるかのように。

〈パラフォックスはマッケンローに、コートのあらゆる面を使うように教え込み、多岐にわたるショットを考え出せと指導した。プレーヤーとして芸術家の感性を持っていたパラフォックスは、マッケンローこそ完璧な弟子になると考えたのだ〉

 マッケンローは語る。

〈「説明するのは難しい。(中略)とにかくガットを通じてボールの感触を感じられたんだ。俺はテニスボールのあらゆる打ち方に最初から魅せられた。フラット、トップスピン、スライスといった打ち方にね」〉

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