慶大、五輪日本代表→ドラ1でプロ入りした元ベイスターズ投手(54)の告白「入団前はある程度やれるだろうと考えていたが、現実は全然違った」

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戦力外通告、そして台湾球界へ……

 リハビリを終えた翌99年には20試合に登板する。完全復活の予兆をつかみつつ、当時の権藤博監督の恩情に報いるべく、小檜山は必死で右腕を振り続けた。

「権藤監督が言ってくれました、“お前よりもすごいボールを投げるピッチャーはたくさんいるけど、ここまでリハビリを頑張ったんだから、オレはお前を使うからな”、って。嬉しかったです。もちろん、全盛期のようなボールではないことは自分でもわかっているけど、何とか気持ちで負けないようにマウンドに上がっていました」

 しかし、小檜山の奮闘もここまでだった。翌00年は4試合、01年は7試合に登板し、この年限りで戦力外通告を受けた。

「故障ではなく、単に実力的な問題でした。年齢も30歳を過ぎていたので、すでに覚悟もできていました。球団事務所に行く当日の朝、サンスポには《小桧山、スカウトに》と出ていたのでそのつもりで行ったのに、何もオファーはありませんでした。それで、トライアウトを受けることにしました。自信があったわけじゃありません。野球を辞めることが怖かったからです。野球を辞めた後の自分が想像できなかったからです……」

 トライアウトの結果、台湾プロ野球・中信ホエールズへの入団が決まった。小檜山にオファーが届いたのは、バルセロナ五輪で対戦し、阪神タイガースにも在籍経験がある郭李の口添えによるものだった。しかし、フィジカルケアが整っていなかった台湾でも右ひじを故障し、わずか1年で現役引退を決意する。ここで小檜山は運命的な再会を経験する。

「当時、元阪神の中込(伸)が台湾の兄弟エレファンツに在籍していたんですけど、たまたまTBSテレビのクルーが、彼を追って取材に来ていました。その中に大学時代の野球部の後輩がいたんです。彼はプリンスホテルで野球をしていたんですけど、大学の先輩である松下さんの紹介でTBSに入っていたんです」

 小檜山の言う「松下さん」とは、自称「世界の松下」こと、元TBS・松下賢次アナウンサーだ。現役引退を決意し、台湾球界を去ることを決めていた小檜山にとって、この後輩との再会こそ、新たな人生の幕開けを告げる契機となるのだった――。

(文中敬称略・後編【プロ野球選手を辞めた後、33歳でラジオ局入りした元ベイスターズ投手(54)のいま「部下の方が優秀。異業種に飛び込むなら必要なことは…」】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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