慶大、五輪日本代表→ドラ1でプロ入りした元ベイスターズ投手(54)の告白「入団前はある程度やれるだろうと考えていたが、現実は全然違った」

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 異業種の世界に飛び込んだ「元プロ野球選手」たち。第二の人生で、元プロという肩書きはどのような影響があるのか。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の今に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第5回は、横浜ベイスターズ投手からTBSラジオへと職を変えた小檜山雅仁さん(54)。前編ではバルセロナ五輪で日本代表になり、ドラフト1位で横浜ベイスターズに入団してからの選手時代の思い出を聞く。(前後編の前編)

TBSラジオの管理職を務める元ドラフト位

 差し出された名刺には「営業統括局 ネットワーク部 担当部長」と記されている。バルセロナオリンピックの銅メダリストであり、かつてドラフト1位指名で横浜ベイスターズ入りした小檜山雅仁は現在、TBSラジオで管理職を務めている。

「いえいえ、《部長》とは名ばかりで、自分はこのグループでいちばん何も知らないバカだと思っていますから……」

 現役引退後、右も左もわからないラジオ業界に飛び込んで、すでに20年以上が経過した。それでもなお、自らのことを「何も知らないバカ」と語る。それは決して謙遜でも卑下でもないことは、このインタビューを読み進めていくうちにお分かりいただけると思う。

 即戦力ルーキーとして期待されて入団したものの、思うような成績を残せなかった。日本で9年、台湾で1年、計10年間の現役生活も、すでに遠い思い出となりつつある。小檜山にとって、かつてのプロ生活(122登板、9勝14敗4セーブ)、そして現在のサラリーマン生活とは、いったいどのようなものなのだろうか?

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「プロを意識するようになったのは(慶應)大学時代、オールジャパンに選ばれた頃からです。バルセロナ五輪でも、初戦のプエルトリコ戦や準決勝の台湾戦など、キーになる試合を任されていたので、自分が軸になっているのかなとは思っていました」

 大学卒業後、日本石油に進んだ後の1992(平成4)年。大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わった直後のドラフト会議において、小檜山は1位指名を受ける。契約金1億2000万円は当時の球団史上最高額だった。入団会見では、「新人王を狙います。目標となる投手はいない。人から目標にされる投手になる」と強気の発言を繰り返した。

「ちょっと勘違いしていたのかもしれないですけど、“ドラフト1位でなければプロ入りしない”と発言したこともありました。希望としては、在京セ・リーグと表明していました。でも、何位指名であっても、在京セ・リーグでなくてもプロ入りしていたと思います。やっぱりプロ野球選手ですから。入団前は、“ある程度はやれるだろう”と考えていたけど、現実は全然違いましたね(苦笑)」

 当時のベイスターズ投手陣は大魔神・佐々木主浩、斎藤隆、野村弘樹、さらに現監督の三浦大輔ら、有望な若手投手がたくさんそろっていた。それもあって入団早々に、小檜山は鼻っ柱をへし折られることとなった。

「ブルペンではキャッチャーの後ろから、他の投手の投球練習を見ました。やっぱり、活躍しているピッチャーは、ボールの勢いや迫力が全然違いました。それを目の当たりにしたせいか、プロ入り後は自信満々でプレーすることはなく、“出番が来たら、とにかくその試合に全力を尽くす”ということだけを常に考えていました」

 斎藤や野村を筆頭に、盛田幸妃、有働克也、島田直也など、1969(昭和44)年生まれの同年齢の投手たちとはすぐに意気投合。新生ベイスターズの期待の一人として、小檜山のプロ生活はスタートした。

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