「被災者はこういう気持ちだろう」という思い込みが生み出す「不謹慎狩り」 なぜ世界の紛争には触れないのか(古市憲寿)

  • ブックマーク

Advertisement

 大きな災害が起こると、決まって自粛を求める声が上がる。華やかな行動は不謹慎であり、イベントなども自粛すべきだというのだ。近年では震災のたびに、SNSに笑顔の写真をアップしただけで不謹慎だと言われたりする。

 2024年は能登半島地震と航空機衝突炎上事故から幕を開けたが、例のごとく自粛論争が盛り上がった。新年一般参賀や経済団体の新年会は実際に中止となった。

 こうした自粛を求める声は、往々にして当事者以外から発信される。震災の一番の犠牲者は命を落とした人だろうが、当然ながら彼らはすでに意見を述べる手段を持たない。生き埋めになったり、孤立した集落の停電した家屋で救助を待つ人も、世論を気にする余裕などないだろう。

 では誰が社会に自粛を求め、不謹慎狩りをするのか。「きっと被災者はこういう気持ちだろう」という勝手な思い込みや正義感を抱いた人々である。彼らは優しく、誠実な性格の持ち主なのかもしれない。だが残念ながら、その優しさはひどく器量が狭く、想像力が欠如していると言わざるを得ない。

 能登半島地震などの災害が、社会に大きな喪失をもたらすのは事実だ。多くの人命が失われ、家屋が倒壊し、生活が奪われる。

 だが世界のどこかでは日々、想像を絶するような惨劇が起こっている。ガザ地区では連日100人を超える命が失われている。世界各地では戦いが相次ぎ、2022年だけでも紛争死者数は約23万8千人に及んだという。

 その最中、SNSで笑顔を公開するのは不謹慎だという論争は起こっただろうか。2020年から2022年まで続いたエチオピアのティグレ紛争の犠牲者など数十万人に達したと推計されるが、そもそも日本では報道自体ほとんどなかった。

 結局のところ、われわれは見知った範囲での不幸に同情しているに過ぎない。世界では毎日、約16万人が命を落とす。日本だけでも約4300人だ。本当に全ての不幸に寄り添おうと思ったら、人は生まれてから死ぬまで、朝から晩まで喪に服さないとならない。果たして、不謹慎狩りをする人々にその覚悟はあるのだろうか? 一生を服喪で終えるつもりなのだろうか?

 誰もが家族や友人といった大切な人の死を経験する。その時のことを考えてみればいいと思う。もちろん途方もなく悲しいし、しばらくは何も手につかないかもしれない。だが世間までが自分と一緒になって悲しんでほしいと思うだろうか。

 5年ほど前のことである。祖母が亡くなった夜、家に帰ってテレビをつけるとオールスター感謝祭が放送されていた。名物企画「一攫千金!ぬるぬるトレジャーハンター」で、鈴木奈々さんが必死の激闘を繰り広げていた。さっきまで病院にいて、祖母を囲んで泣いていた家族たちの緊張した空気が、「ぬるぬるトレジャーハンター」のおかげで緩んだことを覚えている。

 勝手気ままな「自粛要請」に耳を傾ける必要などない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2024年1月25日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。