【袴田事件・初公判】検察は名前も明かさない御用学者7人の「共同鑑定」にすがるしかない…そして裁判所に絶対に否定させたいコトとは

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 ついにこの日がきた。10月27日、袴田巖さん(87)の再審初公判が静岡地裁(國井恒志裁判長)で開かれた。1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で起きた味噌製造会社の専務一家4人殺害事件から57年余。死刑囚の再審としては同じ静岡県で赤堀政夫さん(94)が雪冤した島田事件(発生1954年、再審無罪1989年)以来だ。巖さんに代わり被告人席に立った姉のひで子さん(90)が述べた万感の意見陳述とは。11月10日に第2回公判が行なわれ、弁護側が真犯人像を立証する中、1回目の公判を振り返る。連載「袴田事件と世界一の姉」38回目。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

出廷は免除

 秋晴れの静岡地裁に朝から並んだ傍聴希望者は、整理券バンドを手首に巻いて列を作り、裁判所を一周歩いた後、向かいの駿府城公園で待機させられた。抽選倍率は10倍ほどで、筆者の整理番号は4044番だった。午前9時45分頃に当選番号が発表され、掲示板に走ったが外れた。なんと、筆者の後ろに並んだ4045番は当たっていた。

 もっとも、当選したところで、「主役」の巖さんの姿が法廷で見られるわけではない。この日、被告人席で巖さんの代わりに罪状認否を行うのは、補佐人である姉のひで子さんだ。巌さんは、東京拘置所での絞首刑に怯える生活によって、拘禁反応の影響が出ている。妄想の世界に逃避してしまったのか、現在は会話が成り立たない。

 國井裁判長が9月末に巖さんと密かに直接面談した際、年齢を問われて「23歳」と答えたり、「裁判は勝った」などの発言をしていたりしたことから、法廷でのまともなやりとりが不可能と判断され、弁護団が要請していた出廷免除が決まった。

 午前11時の開廷で、冒頭、國井裁判長は「再審公判の審理を開始します。被告人は袴田巖さん」と「さん付け」で呼び、「自己の置かれている立場を理解できず、黙秘権を理解することは甚だ困難である」と免除理由を説明した。

 この日、巖さんは、姉と暮らす浜松市の自宅から支援者の車でドライブを楽しんだという。

ひで子さんらしい短い意見陳述

 検察官は、1966年11月15日に静岡地裁で読まれたのと同じ起訴状を読み上げる。57年前の罪状認否で30歳の巌さんは「こがね味噌会社 重役一家4人への強盗・殺人・放火事件はまったく私に関係がありません」と言い切っていた。

 57年間もの星霜 を経て弟とバトンタッチしたひで子さんが被告人席に登場し、持参した文書を読み上げた。

「1966年11月15日、静岡地裁の初公判で、弟・巖は無罪を主張致しました。それから57年にわたって、紆余曲折、艱難辛苦がございました。本日、再審裁判で、再び私も弟・巖に代わりまして無罪を主張致します。長き裁判で、裁判所、並びに弁護士、及び検察庁の皆様方には大変お世話になりました。どうぞ、弟・巖に真の自由をお与えくださいますようお願い申し上げます」

 これが積年の思いを込めた意見陳述の全文である。自身に同情や耳目を集めることもない、装飾や冗長を嫌う彼女らしい端的な意見陳述だった。

 傍聴した支援者の安間孝明さん(65)は「巖さんの人生を取り戻す歴史的瞬間に立ち会えた。意見陳述の時、珍しくひで子さんが少し涙声になっていました。私も涙ぐみました。角替(清美)弁護士なんかボロボロと泣いていましたよ」と明かしてくれた。

 ひで子さんが陳述で裁判所と弁護団に加え検察にまで謝意を示したことを知った筆者は、今年3月、検察の特別抗告断念で自宅に相次いだ祝福の電話に「検察は偉かった。偉いよ」と話していたのに驚いたことを思い出した。

 続いての冒頭陳述では、検察は巖さんを犯人とする根拠を3点あげた。

【1】凶器はクリ小刀で、被害者宅の中庭に落ちていた雨合羽からさやが見つかった。雨合羽は従業員が使用し、当時工場にあった

【2】犯行(放火)に使われた混合油も工場で保管されていた可能性が高く、中身が減って血が付いていた

【3】被害品布袋3点のうち2点は被害者宅と工場の間で発見され、工場では血痕や手ぬぐいが風呂場で発見された

 だが、文面には「みそ工場の関係者と推認される」など「推認」が度々使われ、「被告はこうした行動を取ることができた」など巖さんを犯人と断定できていない表現も散見する。

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