低賃金労働者として貧しい子どもが移民として送り出された時代 その後、人権軽視の報いが(古市憲寿)

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「1860年代から1920年代:1200人の貧しいブリストルの子どもたちがカナダへ送られた」

 歴史博物館のパネルに書かれていた一節が目に留まった。ここはイギリスの港町ブリストルである。商工業都市として栄え、近年では金融産業も進出する人口約50万人の街だ。

 今でこそイギリスは移民の受け入れ国である。ちょうど博物館の前でも、難民受け入れの是非を巡るデモ行進が繰り広げられていた。掲げられていたプラカードには「ブリストルは難民を歓迎する」とあった。

 どうやら、ここ最近のブリストルでは難民対策を巡って、ちょっとした騒動が起きていたようだ。地元紙の報道によると、有名な四つ星高級ホテルが難民受け入れ施設になったため、もともとの宿泊予約や結婚式がキャンセルさせられ、混乱が起きてしまった。中には急な解雇を告げられた従業員もいたという。難民自らが高級ホテルに滞在することを望んだわけではないが、受け入れ反対派には格好の批判材料を与えることになった。

 イギリスでは難民申請をするためにドーバー海峡をボートで渡ろうとした人が2022年には4万5千人を超えたという。受け入れのための費用は年間30億ポンド(5400億円)にも及び、激しい論争の対象になっている。

 このように難民対策に苦慮するイギリスだが、かつては移民を送り出す側の国でもあった。時には慈善活動の名の下、貧しい子どもたちが旧植民地であるカナダやオーストラリアへ送られたのである。

 子どもたちは理想の労働力だと考えられた。大人の移民を受け入れると家族や配偶者を呼ぶかもしれない。独自の文化を持ち込む可能性もある。

 だがイギリスから子どもが単身でやってくる場合、そうした「リスク」をあまり考える必要がない。孤児が多かったから、帰るべき家も、呼ぶべき家族もない。物言えぬ低賃金労働者として児童移民は重宝されたのである。今よりも人権意識の希薄な時代だ。中には奴隷のような扱いを受けた子どもも多かったという。

 だが子どもを労働力として有効活用した国々は、思わぬツケを払わされることになった。ようやく1980年代になって児童移民が広く知られることになり、のちにイギリス首相やオーストラリア政府が公式に謝罪をする事態に発展する。

 短期的には理想的だったはずの労働力の利用は、人権意識の変化と共に手痛い報いを受けることになった。

 現代の難民問題はどう決着するのだろう。児童移民が重宝された時代から比べると、機械化やIT化によって、かつてほど労働力は必要とされなくなっている。

 だが無制限の難民受け入れは困難だとしても、ちょっとした待遇の差は、人間の心に大きな影響を及ぼす。ひどい扱いを受けた人は、たとえ難民認定がされ居住許可が出ても、その国に悪い印象を持ち続けるかもしれない。短期的に合理的に見える行為が長期的にもそうかはわからない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年10月26日号掲載

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