【今日は何の日?】金田正一の「史上唯一の400勝」から54年 実弟が明かした知られざる素顔とは(小林信也)

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 日本のプロ野球で通算400勝を挙げた投手は、金田正一だけだ。伝説の大記録から54年。享栄商を3年夏で中退して1950年国鉄スワローズ(現ヤクルト)に入団。17歳ながら8月から8勝を挙げた。高校進学時はまだ14歳、通常より1年早かったという謎の伝説も残されている金田の素顔とは。

(以下、「週刊新潮」2021年6月10日号をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のまま)

 2年目の51年に22勝。以後14年連続20勝以上を記録。353勝を稼いだあと65年から巨人に移籍し、69年に400勝を達成した。

 2位米田哲也が350勝。3位小山正明が320勝。他を圧倒する孤高の記録だ。通算勝利上位12人までは、50年代から80年代までに引退した投手ばかり。13位にようやく2010年まで現役だった工藤公康(現ソフトバンク監督)が224勝で登場する。連投や登板過多が問題視され、登板間隔を空ける起用法が常識になって以降、年間20勝が難しくなった。最多勝も15勝が目安となって久しい。だから金田の400勝は今後「破られない記録」と見られている。

 現役時代から引退後まで、豪放磊落、勝者に対する敵役の印象が強かったが、調べてみると不遜なイメージとは反対の知られざる逸話にも出くわす。

 思えば私が初めて金田正一を見たのはハワイだった。83年2月のハワイアン・オープンで青木功が劇的な優勝を飾った。日本選手がPGAツアーで優勝するのは初の快挙。それこそ蜂の巣をつついた大騒ぎ。その夜、ワイキキのレストランを貸し切りにして急遽祝勝会が催された。その場を用意したのが金田だった。優勝を我がことのように喜び、青木を熱く称える金田の表情が印象に残っている。

翌日に入院する父

 金田といえば、長嶋茂雄デビュー戦の対戦相手としてもしばしば語られる。鳴り物入りで六大学野球から巨人入りしたゴールデンルーキー長嶋を金田は4打数4三振に斬って取った。

 試合前、金田は報道陣に言い放っていた。

「ポッと出の新人になめられてたまるか。ワシはプロやで。打たれたらプロの暖簾が泣くわ」

 そして試合後、何食わぬ顔で言った。

「長嶋ひとりを牛耳ったところでワシの給料は上がらんよ」

 だが後年、金田にはこの試合、「どうしても負けられない理由がもうひとつあった」と週刊誌上で告白している。

「じつはこのとき、ワシは名古屋に住む親父を球場に招待していた。親父は胃がんに侵されていた。翌日、親父は都内の日赤病院に入院した。もう親父が二度と球場に野球を観にこられないとわかっていたから、ワシはこの年、目の色を変えてひたすら練習し、走りまくった。野球が大好きだった親父を喜ばせるには、ワシの勝利を知らせるしか方法がなかった」

 その言葉どおり、この年金田は開幕から9連勝しただけでなく、開幕70日目に20勝到達という信じられない最速記録を打ち立てている。最終的には56試合に登板し、31勝14敗。防御率1.30、奪三振311で投手三冠を独占した。

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