所持金わずか700ドルで娘をアメリカに行かせたシャラポワ父 ビザ取得にかけた執念とは(小林信也)

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 マリア・シャラポワが美しさだけでなく劇的な背景を持つ選手だと、どれほどの人が知っているだろうか。

 5年前に翻訳出版された『マリア・シャラポワ自伝』(金井真弓訳・文藝春秋刊)に、天才少女が才能を開花させた経緯が克明に書かれている。普通は起こりえない、執念と無謀さと周囲の野心や善意の絡み合いの積み重ねに驚かされる。序盤にこんな一節がある。

〈わたしをテニス選手にした出来事をひとつ選ばなければならないとしたら、チェルノブイリの原発事故だろう〉

 原発事故は1986年4月に起こった。シャラポワが生まれる1年前だ。爆発地点から約160キロのゴメリ(ベラルーシ)に住んでいた両親は被災し、事故後すぐ祖父母の住むシベリアのニャガンへ逃れた。翌87年4月、そこでシャラポワは生まれた。

 2歳の時、寂しいニャガンに退屈した父ユーリがソチへの引っ越しを決めた。誕生日にジョークで贈られたテニスラケットがきっかけでテニスを始め、思いがけずはまった。それがリゾート地のソチを新天地に選んだ理由だった。ソチにはテニスコートがあふれていた。いつも父と行動していたシャラポワが、4歳の頃の出来事を記している。

〈わたしはあの日、テニスコートにいたのだ。初めてテニスラケットを手に取ったあの場所。リヴィエラ・パークに。どんな理由があったにせよ、わたしにはこの能力があった。つまり、あそこの壁にテニスボールを何時間でも打ち続けていられたのだ。人々が感想を述べたのはわたしの技術についてではなかった。集中力についてだった──少しも退屈せずに、何度も何度も壁打ちできた。わたしはメトロノームだった〉

 飽きる事なく壁打ちを続ける4歳の少女の周りにいつもそれを眺める人の輪があった。

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