1968年に起こった「明治ブーム」 一大祭典だったのに東京五輪、大阪万博より印象が薄い理由(古市憲寿)

  • ブックマーク

Advertisement

 東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展へ行ってきた。

 現在、国指定の重要文化財(美術工芸品)は10872件あるが、明治以降の近代に限ると68件しかないのだという。確かに重要文化財というと、古くからの仏像や日本画を思い浮かべる人が多いだろう。

 重要文化財の中で特に価値が高いものが国宝に分類される。国宝指定された近代の作品はまだない。

 そもそも明治以降の作品が初めて重要文化財に指定されたのは1955年のことだ。同年に4件、翌年に2件の日本画が指定されてからは、11年もの間、近代作品が何も指定されない時期が続いた。ようやく1967年になって6件、1968年に4件、1969年に5件と明治から大正の作品の指定が相次ぐ(「重要文化財の秘密」図録参照)。

 一体、何があったのか。実は1968年は明治維新から100年に当たるアニバーサリーイヤーだったのだ。全国各地で記念イベントが挙行され、明治百年記念恩赦まで実施された。愛知県犬山市の「博物館明治村」には約160万人が詰めかけたという。政府がイベントを告知した1966年以降、ちょっとした明治ブームが起きていたのだ。

 ちなみに司馬遼太郎の『坂の上の雲』の連載が始まったのも1968年である。明治ブームの中で生まれた作品といっていい。時代は高度成長の真っ最中でもあった。敗戦による自信喪失が経済成長によって癒やされつつあった。そんな中で、明治を輝かしい時代として捉え直そうという気運が盛り上がっていたのだ。

 明治百年祭には、戦争をなかったことにしようという思惑が透けて見える。当時は日本国憲法施行から約20年に当たる時期だ。護憲派は「戦後」の否定につながるとして明治百年祭に反対した。確かに明治と現代の連続性を強調することは、占領期や新憲法の存在感を薄くするのに寄与する。

 このような騒動の最中、近代作品の重要文化財指定が相次いだ。何も絵画をナショナリズムの道具に活用しようという露骨な意図があったとは思わない。だが明治100年の熱狂が、指定の追い風になったのは事実だろう。芸術もまた時代や政治から無縁ではいられないわけである。

 同時に思う。明治百年祭を覚えている人はどれだけいるだろうか。1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博との狭間にあって、あまりにも印象が薄い。

 本来ならば不思議な話である。明治百年祭は全国的に実施された一大祭典であった。一方のオリンピックと万博は、「東京」と「大阪」という地域イベントだった。国家が無理やり盛り上げようとした明治百年祭は、すっかり忘却の彼方にある。

 だがそのタイミングで指定された横山大観の「生々流転」や黒田清輝の「舞妓」といった重要文化財は、今でも多くのファンを魅了する。『坂の上の雲』も同様である。時代や文脈が忘れられてもなお人々から愛される作品が、名作の条件なのかもしれない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年5月4・11日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。