生誕100年・池波正太郎の小説はなぜ今も実写化が続く? 12歳から株屋で勤務、軍隊も経験…培われた人間観とは

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死に直面した日常の光景

 池波作品を支えるのが、衣・食・住から成る生活のリズムであることはすでに記したが、このリズムに対する池波自身の信頼は、どこから培われたものだろうか。それを語る前に、しばし、池波の軍隊生活について触れておこう。

 池波は昭和19年、横須賀海兵団に入隊、ついで武山海兵団内の自動車講習所へ入り、更には横浜は磯子にあった801航空隊に転属することになる。やがて801の大半が鳥取・美保航空基地に移ると、池波も水兵長に進級するが、この基地は日本海に面した弓ヶ浜半島の中程にあり、「美しい白い砂地の土地に暮す半農半漁の住民の純朴さと、おだやかな日々の明け暮れに、/『まるで、この世のものとは思えないですなあ』/中年の応召兵の中村一等水兵が、私にいった」(『青春忘れもの』)というほどの環境で、ある種の清涼な雰囲気と悪化する戦況の中で、「近いうちに死ぬとおもうと、名も知らぬ草花も空の色も何ともいえずに美しく、胸がしめつけられる」(「私の夏」、『日曜日の万年筆』所収)ままにさまざまな短歌や俳句をつくり始める。

 おそらくこの時の、死に直面した日常の光景が鮮烈に刻印されるという体験こそが、池波作品の主要なテーマである“確実に近づきつつある死に向かって己れの生を充実させねばならない”という認識の発露であろう。そして母の手紙によって、空襲を経た廃墟の浅草で例年通り、四万六千日(しまんろくせんにち)の行事が行われたと知らされたという。庶民の生活のリズムはあの空襲にさえ打ち勝った。それこそが池波作品の根底を貫くものではあるまいか。

恩師との出会い

 感無量であったのも束の間、8月15日の敗戦となる。炎天下、池波が列車を乗り継いで帰京したのは8月24日、母は奇跡的に焼け残った下谷稲荷町の一角の2階に、祖母と弟、叔母と共に暮らしており、「骨休めに、どこか、温泉へでも行っておいで」と、復員してきた息子に200円を渡したという。

 戦後の池波正太郎の劇作家兼小説家としての成功は、恩師である長谷川伸との出会い抜きには語れない。池波は長谷川の「この道へ入って、途中で自信を失い、自分のしていることにうたがいを抱くようになるのは成功を条件としているからなんで、好きな仕事をして成功しないものならば男一代の仕事ではないというのだったら、世の中にどんな男の仕事があるだろうか……こういうことなんだね。ま、一緒に勉強しようよ」(『青春忘れもの』)という言葉に打たれ門下生となる決心をしたという。

 その後池波は、後の『真田太平記』に連なる真田ものの一篇「錯乱」(「オール讀物」昭和35年4月号)で第43回直木賞を受賞した。この作品は松代藩主・真田信之のもとへ幕府から送られてきた父子2代の隠密を描いたもの。父が子に言う「笑いを絶やすな。どんな人間にも、お前の人柄を好まれるようにしろ。何事にも出しゃばるなよ。(中略)どの人間からも胸のうちを打ち明けられるほどの男になり終(おお)せるのだ。よいか……よいなあ」「――そういう人間になることは、切なくて、それは淋しいものだぞ。覚悟しておけいよ」といったせりふの中に、戦乱の世を離れてなお、死を前提として生きる隠密の独自の人間性があらわになる力作であった。

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