ギフテッド=天才児は誤解 大人の過度な期待がつぶす「子どもの才能」

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発達障害を疑われることも

 ギフテッドだと判明するのは、小学校入学以降が多いという。

「幼稚園や保育所と違い、小学校は授業の時間が大半を占めるため、周囲との違いが顕在化しやすいです。知的好奇心の強いギフテッドの子どもは、勉強出来ることを楽しみに、期待を持って小学校に入学します。ところが、授業の内容は簡単すぎて面白くない。それをじれったく感じると授業中に椅子にじっと座っていることが苦痛になり、歩き回ってしまうこともある。そんな様子から、教師にADHDなど発達障害の可能性を指摘される場合があります」

 今日の日本では子どもがギフテッドかどうか分かるのも、障害の可能性が見られる場合に検査を受け、その過程で判明するパターンが多いそうだ。

「発達障害などを疑いWISCという検査を受けた場合、IQが高ければ、大抵は『問題ない』となってしまいます。でも、小さい頃から『他の子どもと何かが違う』『育てにくい』と感じていた保護者は、何かあるはずだと考えます。ネットなどで色々調べた結果、ギフテッドである可能性に気づき、学校に理解を求めにいくという流れが多いのだろうと思います」

「学校に居場所がない」と感じる

 ギフテッドには正義感が強く、理想主義で理にかなわないことを嫌うというといった特性も見られることがあると角谷教授は指摘する。故に、小学校では苦労することも少なくない。

「子どもとしては授業の話に関連して興味を持ったことを教師に質問したのに『それは授業に関係ないから』などと無下に扱われたり、集団生活のルールを理不尽に感じたりすると大きな苦痛を感じます。また繊細な感受性を持つため、自分だけでなく、クラスメイトが理不尽な目に遭っているのを目撃するだけで辛い気持ちになってしまうということもあり、このような経験が重なるうちに『学校に居場所がない』という思いを強くします。さらに、エネルギーが高く激しい感情を持つ場合も多いため、周りからは『扱いにくく変わった子ども』といった風に見られたりもします」

 学校現場では、ギフテッドと比べると発達障害への理解の方が進んでいる場合が多く、教師がまず発達障害の可能性を考えるのも無理はないだろう。

「そもそもギフテッドであるかどうかは、自己診断出来ません。有資格者のもとで、知能検査を含め判定を受けるというプロセスが必要になります。その判定は難しく、ギフテッドであるだけなのに障害と誤診される場合があります。それと同時にギフテッドでありながら発達障害やその他の疾患を併せ持つ人もいて、二重にエクセプショナルな人(2E)と呼ばれます」

 角谷教授はこうも強調する。

「診断や判定が重要なのは、ラベル付けをするためではなく、その後どのようにケアし、対応するかを考えるためです。そしてその子の心理的な健康の改善に繋がっているかということが重要です」

 ちなみに、先の文科省の有識者会議では〈特定分野に特異な才能のある児童生徒〉の定義を下記のように解説している。

〈概ねの傾向として、IQ(知能指数)などによる一律の基準を設けるのではなく、大綱的な定義を置いていることが多い。(中略)また、どのように才能を見いだしていくのかについては、伝統的に知能検査や認知能力検査、学力テスト等が活用されているが、現在はそれだけでなく、教師や生徒本人の質問紙やチェックリストなどを包括的に活用する例もみられる。〉

 その上で、〈才能教育に関しては、ややもすると「才能は全ての児童生徒が有しており、その優劣は測ることができない」あるいは「全ての児童生徒が無限に才能を伸ばす可能性を秘めている」といった議論に陥りがちであったが、有識者会議ではそれにとどまらず、明確な課題について具体的かつ現実的な議論を進めることに最大限留意して取り組んでいく〉と付言されている。

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