大注目の「ヘラルボニー」はなぜ福祉実験ユニットと名乗るのか

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 銀座の老舗名門企業とのコラボレーションで未来へとこぎ出したヘラルボニーは東京・渋谷の施設「100BANCH」を拠点にする。そこはスタートアップとして起業したばかりの人、NPOや個人事業主、高校生もいたりする「実験区」だった。

 自分たちだけでは気付けなかった視点やアイデアに触れることで、事業のコアはより明確になり、ふくらみをももつことになる。そして「異彩を、放て。」という会社のミッションが定まった。知られざる黎明期の秘話を『異彩を、放て。―「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える―』から紹介する。

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東京の拠点は「100BANCH」

「100BANCH」という不思議な名前の場所を見つけたのは、何がきっかけだったか、崇弥は覚えていない。ただ、プロダクト展開がネクタイ、ボウタイ、傘、ボールペン、ブックカバー……と広がっていく中で、定まった拠点なしでは管理が難しくなってきたのも確かだった。

「MUKUを手伝いたい」と声をかけてくれるプロボノ(職業ボランティア)メンバーやインターンも増えてきた。どこか決まった拠点を見つけなければ……そう考えていた矢先、パナソニックが主体となって、渋谷で「100BANCH」というスペースを運営していることを知った。

 100BANCHというのは、パナソニックが2018年に創業100周年を迎えるのを前に、2017年7月7日にオープンした施設だ。

 パナソニックとロフトワーク、カフェ・カンパニーが協業し「次の100年にむけた、100のプロジェクトを生みだす実験区」をコンセプトに、ワークスペースとイベントスペース、カフェが入居している。

 その目玉となっているのが、アクセラレーションプログラム「GARAGE Program(ガレージプログラム)」だ。営利・非営利問わず、35歳以下のリーダーが主宰するプロジェクトを公募し、選抜。審査を通過したチームは、無償でワークスペースとイベントスペースを利用できる。しかも、各界を代表する方々がメンターとなって、プロジェクトを成功させるためにアドバイスやサポートをしてくれるのだという。

 これまでMUKUとしてさまざまなプロダクトをつくってきたが、もっと社会に影響を広げていけるように、新たなアプローチはないだろうか……。そう模索していたところだった。「もっと作家個人にフォーカスして打ち出せたら」「僕らの手で福祉施設をつくることはできないか」などと考えていたものの、具体的な個別アイデアが思い浮かんでいるわけではなかった。そんな僕らがこのプログラムを知ったからには、応募しないという選択肢はなかった。

 急いでプロジェクト概要をまとめ、GARAGE Programに応募したところ、運よく採択され、2018年2月から参加することができた。

 メンターを務めてくれることになったのは、&Co.代表取締役で「Tokyo Work Design Week」オーガナイザーの横石崇さん。ブランド開発やコミュニケーション戦略、組織変革などを手がけていて、100BANCHでもいくつものプロジェクトに携わっていた。

 僕らの漠然としたアイデアに対し、的確なアドバイスをくださって、「これからMUKUはどうなりたいの?」「どんな人とつながりたい?」と、いつも気にかけてくれた。僕らはブランドのコンセプトをブラッシュアップしつつ、銀座田屋や小宮商店のように、さらなる企業との協業を模索することにした。

 その一方で、プロダクトという形だけでなく、もっと直接的に障害のある人と社会との接点を生み出す方法を考えるようになった。兄と一緒に出かけると、遠巻きにジロジロと見られたり、大げさに目をそらされたりする。日常の中で、障害のある人と関わる機会がなく、その実態をまったく知らないから、そうやって「いなかったこと」にされるのだ。障害があってもなくても、もっと“ふつうに”コミュニケーションを図り、同じ時間を共有するようなきっかけをつくりたかった。

 そこで開催したのが、「まちといろのワークショップ」だ。

 まずは三つのチームに分かれて渋谷のまちへ出かけて、色を探す。気に入った色をチェキで撮りためて、その中から「そこにしかないまちの色」を見つけ、好きな名前を付ける。そしてその色を絵の具で再現して、集めた色の「まちのカラーパレット」をつくり、Tシャツに自由に絵を描いていく、というものだ。

 ワークショップには、一般参加者のほか、東京・目白に拠点を置く豊島区立目白生活実習所・福祉作業所、通称「メジロック」の利用者の方々に参加してもらった。ちなみに、兄と母もはるばる岩手・金ケ崎からやってきて、まさかの「授業参観」にもなった。

 色を探しにまちへ出かけると、一般参加の方はキョロキョロと周りを見渡し、真剣に珍しい色を探そうとする。

 そんなときにメジロックの林さんが「クレープ食べたい!」と言い出した。すると、「いいね!」「クレープ屋さんに行こう!」と満場一致で、色を探しながらみんなでクレープ屋さんを目指すことにしたのだという。見せてもらった道中の写真には、クレープを手に満面の笑みでピースする兄と母が写っていた。

 昼休みをはさんで、Tシャツに絵を描いていくときにも、面白いことが起こった。

 みんな黙々と絵を描いていたところ、メジロックの浅海さんが「くたびれた!」と昼寝をはじめたのだ。フロアデッキにゴロンと横になった……と思ったら、すぐに起き出し、筆を執ってものの3分でサササッと見事な虎を描いてみせた。その下には、昼休みに食べたおにぎりまで描いてある。そのスピードに、みんな圧倒されていた。

 僕らはその光景を目の当たりにしながら、あぁ、こんなことがやりたかったんだ、と考えていた。

 僕らは同じ世界を見ているようで、それぞれ見ている世界が違う。障害のある人にしか見えない世界もあるし、僕らにしか見えないものもある。そこにはただ、違いがあるだけで、どちらが美しいとか美しくないとか、そういうわけじゃない。「違うね」「面白いね」と言いあいながら、一緒になって何かを形づくっていく……。その「違い」を「価値」に変えることが、僕らの役割なんだ、と。

「俺、会社辞めようと思って。おまえも会社辞めろ!」

 100BANCHには、僕らのほかにもさまざまなプロジェクトが肩を並べていた。スタートアップとして起業したばかりの人々もいれば、NPOや個人事業主、高校生もいたりする。僕らがこれまで関わってきた人々とはまた違う、それぞれの人生と価値観があって、さまざまな働き方、生き方があった。

 中でも、視覚障害のある人を中心に、手話と謎解きを組み合わせた「異言語脱出ゲーム」をつくる「異言語 Lab.」と、墨字と点字を重ね合わせ、目の見えない人も見える人も読むことができるフォント「Braille Neue(ブレイルノイエ)」を開発した高橋鴻介さん、日本語の読めない海外の方に日本語教育を提供する「NIHONGO」のメンバーと出会えたことは、関心領域や目指す未来像に重なる部分も多く、大いに刺激になった。僕らだけでは気づけなかった視点やアイデアに気づかされ、のちにイベント「未来言語」という派生プロジェクトに取り組むことにもつながった。

 100BANCHを訪れるたび、どんどんMUKUが進化していくような気がした。「アートブランド」という枠組みだけにとらわれず、もっとまちの風景が変わるようなプロジェクトやイベントを生み出していけたら……。スタートアップを立ち上げ、覚悟を決めて社会を変えようとしている人たちにも触発された。

 そして崇弥が忘れもしない、2018年4月の頭。

 オレンジ・アンド・パートナーズの年度はじめの会議で、それぞれ今年の個人目標を発表しているときだった。今年はどんなことを頑張りたいか、何を達成したいか……ほかの社員の発表を聞きながら、ふと我に返った。

 自分はこれからの1年、この会社でできることってなんだろう。目の前にMUKUという、これほど情熱を傾けられるものがあるのに。俺は「知的障害のある人のため」に仕事をしたい。持てる時間を全部MUKUに注ぎ込みたい……。

 そう考えはじめたら、居ても立っても居られなくなった。

 会議で自分の目標をなんと言ったのかも、あまり覚えていない。ただ、会議が終わってすぐ、直属の上司の内田真哉さんに、その思いを伝えに行った。

「前々から考えてたんですけど……やりたいことがあるんです。辞めさせてもらえませんか」

 その日の夜、文登に電話をした。

「俺、会社辞めようと思って。おまえも会社辞めろ! んで一緒に会社つくろう!」

 でも文登からは、思いがけない言葉が返ってきた。

「いや俺、今年結婚するから無理だわ!」

 文登はその年の12月に結婚することが決まっていた。それにMUKUの収支を管理していることもあって、崇弥とは打って変わって冷静だった。

「俺ら二人が独立するとして、最低でも年収200万くらいはないと生活が厳しいよな。でも今、二人分の売り上げ立ってる? 無理でしょ」

「……」

 何もかも文登の言う通りだった。いや、でももう俺、会社に辞めるって言ったし……。もう火がついてしまったし、こんなにワクワクできる仕事なんて、そうそうない。この気持ちがあれば、どんなことだってやっていける。

 なんなら、オレンジ・アンド・パートナーズでやってきたことを生かして、プランニングやコピーライティングで生計を立てながら、MUKUの活動を進めたっていい。

 崇弥はもう、文登が会社を辞めても辞めなくても、会社をつくることを決めていた。

 上司や先輩にも心配されたし、社外活動としてなら応援してくれていた母も「辞めることはないんじゃない?」「このまま本業と並行してやるのは無理なの?」と消極的だった。銀行勤務だった父に至っては「そんなビジネスで融資が通るわけがない」「無謀すぎる」と大反対だった。でも崇弥はそんな反対の声さえ、「困難を乗り越えるための試練」とポジティブに捉えていた。

 文登は文登で、すぐに会社を辞めることは無理でも、いずれ1年以内には会社を離れて、崇弥とともに会社を経営していこうと覚悟を決めるようになった。

 100BANCHにはすでに会社を立ち上げた人が何人かいたから、会社設立に何が必要で、どんな書類を書いて、税理士や司法書士の人に何をお願いするべきなのか、こと細やかに教えてもらえて、本当に助けられた。

 プロボノメンバーもインターンもプロジェクトと並行して会社設立に向けて手助けしてくれたし、文登だって相変わらずMUKUの活動を進めて、協業先を開拓しようとしていた。「経営者は孤独」とよく言うけど、崇弥はちっとも孤独じゃなかった。

「ヘラルボニー」に意味が生まれた日

「会社の名前を『ヘラルボニー』にしよう」と言い出したのは、崇弥だった。MUKUはあくまでブランド名にして、さらに活動を広げるべく、ふさわしい名前を付けたかった。

 卒業作品制作のとき見つけた、兄の自由帳に書いてあった「ヘラルボニー」という文字。4年経っても相変わらず、検索結果には引っかからなかった。まだ、この世にはその意味も価値も、存在していない言葉。その言葉を社名にすることで、僕らの歩みによって、「ヘラルボニー」に新たな価値が生まれる。もしこの先、出資されることがあれば、この資本主義社会の中で価値あるものとして見なされる、というわけだ。

 文登は最初「ダサいって!」と反対していたけど、崇弥が力を入れて推しつづけるうちに、やっと納得した。

「異彩を、放て。」──。

 会社のミッションは、崇弥の前職時代の先輩で、株式会社パーク代表取締役、コピーライターの田村大輔さんが考えてくれた。退社を前に、報告がてらランチをご一緒したところ、「ご祝儀代わりに、会社のコピーを書くよ」と申し出てくれた。

 田村さんはSmart HRやLayer Xなど、勢いのあるベンチャー企業のブランディングやミッション・バリュー策定などを多数手がけている。そんな田村さんと、僕ら双子の三人で、ヘラルボニーのミッションとバリュー(行動指針)を議論しながら考えていった。

 ヘラルボニーが目指すのは、福祉といういわば“ムラ社会”のボーダーを超えることだ。

 知的障害のある人は、庇護すべき存在で、「かわいそう」と同情されてもしかたないと考える人が、福祉業界の中にさえいる。もちろん、日常生活で介助や支援が必要な場面はあるし、できないことは多い。

 けれども「できない」ことを「できる」ようにするのではなく、「できない」という前提を認めあう。そして彼らの類いまれなる集中力やこだわりによって生まれた作品は、社会に新しい彩りをもたらしてくれる。

 彼らを社会に順応させるのではなく、彼らが彼らのままでいられるよう、社会のほうを順応させていく。そのためには「福祉」という領域を拡張し、イノベーションを起こすことで、社会全体を変えていかなければならない。

 そのきっかけとなる“社会実験”を僕らが起こすのだ。そこでヘラルボニーを、ただの会社ではなく「福祉実験ユニット」と定義した。

『異彩を、放て。―「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える―』より一部を引用、抜粋。

デイリー新潮編集部