中2、小4の子を残し「39歳の若さで逝った夫」 意識をなくす前に妻に伝えた「予想外の言葉」

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「これまでの私の人生を振り返ってみると、大きな三つの辛い出来事がありました」――そう語るのは、岸田ひろ実さん。

 その三つの出来事とは、授かった長男・良太さんがダウン症だったこと、39歳だった夫の急逝、さらに自分が大動脈解離の手術の後遺症で突然歩けなくなったこと。でも、それらは決して悪いことばかりではなく、自分にとっての転機だったと振り返る。

 立ち直れないほどの困難に直面した当時、どう考え、どうやって乗り越え、現在はどう受け止めているのか。岸田ひろ実さんによるエッセイ集『人生、山あり谷あり家族あり』から3回に分けて紹介する。(全3回の2回目/1回目から読む)

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面倒見のよさで一目おかれる人柄に引かれる

 39歳で急逝した夫、岸田浩二と出会ったのは、短期大学を卒業して不動産会社で働き始めた時でした。私より3歳年上の同期でもありました。夫と私の他に同期の社員は4人いましたが、夫はみんなを引っ張ってくれるリーダー的な存在でした。また悩んでいる仲間がいたら声をかけて相談事に付き合ってくれる優しさもあって、同期のみんなから頼りにされる存在でした。

 面倒見のよさは、小学生から高校生まで野球少年で、ずっとチームのレギュラーでキャプテンをしていた経験からきていたんだと思います。私の夫の印象は、一言で言うと、強くて優しくて信念のある人。ちょっと偉そうにも思えましたが、頼もしい存在でした。いつも自信がなく、優柔不断な私とは真逆の性質を持っていました。初めは特別な感情を持ってはいませんでしたが、他の同期と同じように相談にのってもらううちに、気が付けば私とは違う価値観で答えをくれる夫の存在が私の中で大きくなっていました。夫も同じように、自分とは違うものを持っていると感じた私が目に留まったようです。

「円満な家庭を築く」という夫と私の共通の夢をかなえるべく、まもなく夫からプロポーズを受け、1年半で寿退社することになりました。結婚して1年後、奈美が生まれました。かねてから女の子が欲しいと言っていた夫は、どこからどう見ても自分にそっくりな娘と初めて対面した時、満面の笑みで喜んでいました。その時の嬉しそうな夫の表情は、今でも鮮明に覚えているほどです。

 子育てにおいても、夫は私とは違った価値観を持っていました。そのせいで時として意見が合わなくてけんかになってしまったこともありますが、それ以上に私には気付けなかった考え方を授けてくれる、とても貴重なものでした。悩む私に、いつもとても安心できる答えを与えてくれました。

大多数が選ばないほうを選ぶ――子どもたちに教えたこと

 例えば、小学1年生の奈美がお友達と話が合わない、友達とは違う自分に落ち込んで悩んでいた時。私は、

「そのうち気の合う友達ができるよ、大丈夫だよ」

 と、根拠のない慰めの言葉をかけることぐらいしか思いつきませんでした。でも夫は違いました。ある日突然、デスクトップのMacのパソコンを買って帰ってきました。

「学校には友達がいなくても、それは奈美ちゃんのせいじゃないんやで。奈美ちゃんの友達はこの箱の向こうにいっぱいおるんやで」

 私も奈美も、何を言っているのかさっぱり意味がわからなかったのですが、その後、奈美が実際にパソコンを使い始めるようになるとその意味を理解しました。当時、はやっていた掲示板サイトの2ちゃんねるを奈美が利用するようになると、嬉しかったこと、悲しかったこと、趣味やゲームの話を、そこのチャットで話の合う人たちとするようになりました。そうして気が付けばたくさんの友達がそこにできていました。それからは、友達ができないことに悩んだり、寂しいなんて言わなくなりました。

 また、クリスマスのプレゼントはおもちゃやゲームではなく分厚い図鑑や海外の絵本を、ビデオはVHSではなくベータマックスを、パソコンはWindowsではなくMacを、たまごっちではなくぎゃおッPiを。ファービーは本場アメリカの英語しかしゃべらないやつを……物を選ぶ時は、だいたい大多数が選ばない方を好んで選ぶのが夫でした。

 大多数が選ぶ方を選ぶのが私だったので、時々、意見が合わなくて衝突することもありましたが、夫の確固たる「こっちがいいに決まっとる」という持論にいつも納得させられ、買う物を決める時の主導権は必ず夫がもっていました。

 それが良かったのか、そうでなかったのかは今でも我が家では賛否両論ありますが、その普通とは少し違う夫の選択のおかげで、子どもたちの心が豊かになりました。「人と違ってもいい」という考え方が心に根付き、優しく強い、今の奈美と良太がいます。それは間違いなく夫のおかげです。

 それと、夫の口癖は「あほちゃうか」でした。とても便利な言葉で、腹が立つ「あほちゃうか」から、おもしろい「あほちゃうか」に、優しい「あほちゃうか」まで、いろんな場面で使い分けていました。今でもことあるごとに、夫の「あほちゃうか」が聞こえてきて勇気づけられています。

 お人好しで、喜怒哀楽は激しいけど、悪いことをしたと思ったらすぐに素直に謝れる人でした。仕事人間で家のことや子育てを手伝ってくれることは少なかったけれど、ここぞという時にはしっかりと子どもたちと向き合い、話してくれました。腹が立つこともたくさんあったけど、結局は人柄の良さですべてを許してしまえる、不思議な魅力を持つ夫でした。

 誰よりも優しく、強い夫のおかげで、いろいろあっても笑っていられる今の私がいます。

阪神大震災をきっかけに起業 多忙の中、急性心筋梗塞

 夫は阪神大震災をきっかけに、7年勤めた会社を辞めました。震災で家を失ってしまった人も、今までのように笑って幸せに暮らせる家を造るんだと、建築・設計・デザインを手掛ける会社を一人で立ち上げました。当時はまだ珍しかったベンチャー企業。毎日、寝る間も惜しんで働いていました。それが大変でありながらも、自分の夢をかなえる楽しさの方がずっと大きかったために、気が付けば心身への負担が大きくなっていたのでしょう。

 起業してちょうど10年が経った頃、40歳になる直前、夫は過労とストレスからくる急性心筋梗塞になり、たったの2週間の闘病の末、一度も意識を取り戻すことなく亡くなってしまいました。当時、奈美は中学2年生、良太は小学4年生でした。突然のパパの死を、あの時こうしていたらよかった、なぜあんなことを言ってしまったんだろうと悔やむ反抗期真っ只中の奈美。パパの死を全く理解できていないダウン症で知的障害のある良太。これから私一人でどうやって支えていけばいいのだろうか、育てていけるのか。当時の私にはあまりにも荷が重すぎて、全く自信がありませんでした。

 搬送される救急車の中で、意識をなくす前の夫はポツリと私に言いました。

「俺はもうあかんと思う。でも、奈美も良太も、もう大丈夫やから。俺が教えたかったことは全部教えてる。ほっといてもちゃんと育つから、大丈夫や。でも、ママには迷惑かけてごめんやで」

 私も病院の先生も、最初は生死をさまようような重篤な症状ではないと思っていました。だからその時も夫の言葉は、後になったら笑える話だと信じきっていました。

「何を言ってるの! しっかりしてよ! 早く元気になってよ!」

 と叱りながら励ましていました。でも夫だけは自分のことをわかっていたのかもしれません。「俺はもう助からない」ということを。

 夫が亡くなってからの悲しみ、寂しさ、そして不安は想像以上のものでした。それでも、うそでも、子どもたちには、私が悲しんでいる姿ではなく笑っている姿を見せようと、ただそれだけを頑張っていました。パパが亡くなってしまった悲しみの上に、毎日泣いているママの姿を見せて子どもたちの悲しみを重ねさせることだけは避けたかったのです。子どもたちのために私が頑張らなくてはと、そればかり考えていたのですが、結局、私が子どもたちのために頑張れたのは、笑っている私を見てもらうことだけでした。

「奈美も良太も、もう大丈夫やから」が現実に

 そして、月日が経つとわかることがありました。それは、夫の言う通り、奈美も良太も、もう大丈夫ということでした。ちゃんと育ちました。奈美や良太が困った時、迷った時は、奈美や良太の中で生き続けているパパに問いかけているように思えます。パパだったらなんて言うだろう。パパだったらどうするだろうと。夫と一緒に暮らせたのは、たったの15年でした。とても短かったです。でも良かったことは、早くに夫・岸田浩二と出会い結婚したことです。「まだ若いのに」「もっと遊んでからでいいのに」「結婚はもっと後になってからでいいのに」……。25歳の夫と22歳の私、若い私たち2人の結婚にアドバイスをしてくれる人も多くいました。でも、早く結婚したからこそ、短いながらも、ちゃんと15年、一緒にいられたんだと思います。

 夫は今、人の形をして、私や子どもたちの横にはいません。

 それでも、私や子どもたちの中にぼんやりとだけどしっかり生き続け、私たちが楽しい時もそうでない時も、夫の口癖の便利な言葉、「あほちゃうか」で私たちにいつもエールを送ってくれています。岸田家は今日も奈美、良太、私、そして夫の浩二と、この四人でご機嫌なのです。

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『人生、山あり谷あり家族あり』より一部抜粋・再構成。

岸田ひろ実(きしだひろみ)
1968年大阪市生まれ。ダウン症で知的障害のある長男の誕生、39歳だった夫の急逝、さらに自身が大動脈解離で受けた手術の後遺症によって車椅子生活になる。リハビリ中から心理学を学び始める。2011年、娘・奈美が創業メンバーである株式会社ミライロに入社し、同社主催講演などの講師を務めていた2021年、感染性心内膜炎で再度の心臓手術を受ける。2022年5月現在は退社し、講演やコンサルティングなどフリーランスで活動中

デイリー新潮編集部