【鎌倉殿の13人】史書では病死…北条義時はどんな最期を迎えるのか

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義時の最期は毒殺か刺殺か

 次に「鎌倉殿――」での義時はいかなる最期を迎えるのか。義時が死んだのは「承久の乱」(1221年)から3年後の1224年6月。62歳の時だった。

『吾妻鏡』は病死としている。亡くなる前から精神が錯乱するようになっていた。死去前日に体調を崩し、すぐに危篤になり、そのまま息を引き取った。公家の日記などに基づく歴史書『百錬抄』にも頓病(急病)と記されている。病名は脚気。周囲では陰陽師が祈祷し、本人は南無阿弥陀仏と唱えながら、逝ったという。

 ただし、「鎌倉殿――」が病死を採用することはないだろう。出演者たちが「最終回すごい」と口を揃えているからだ。

 毒殺も死因として有力視されている。古くから犯人と目されているのは伊賀の方こと義時の継妻・のえ(菊地凛子[41])。のえは義時の死後、「伊賀氏事件」を起こしており、これが状況証拠となっている。

 この事件は鎌倉お得意の権力争い。義時に次ぐ3代目執権には実績のある42歳の北条泰時(坂口健太郎[31])が就くと見られていたが、のえは自分と義時の子である20歳の北条政村(塩田宙[7])を強引に据えようとする。のえは将軍も女婿の一条実雅にやらせようと画策。その実現のために政村の烏帽子親・三浦義村を抱き込もうとした。

 状況証拠はまだある。公家の歌人・藤原定家の日記『明月記』に載っている僧侶・尊長の証言だ。後鳥羽上皇(尾上松也[37])の元側近で、承久の乱から6年後に捕らえられた尊長は、泰時の嫡子・北条時氏らにこう言った。

「早く首を切れ。さもなくば、義時の妻が義時に飲ませた薬で、早く殺せ」(尊長)

 尊長はただの僧侶ではない。のえの女婿・一条実雅の異母兄。義時暗殺に関する情報を得ていたのかも知れない。「鎌倉殿――」が、のえによる毒殺説を採用するとしたら、のえを一貫して悪女として描いているのもうなずける。のえによる暗殺は考えられる。

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