【鎌倉殿の13人】史書では病死…北条義時はどんな最期を迎えるのか

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実朝暗殺は義時が黒幕説も

 義時黒幕説を唱える声も古くからある。実朝は右大臣拝賀(右大臣に就いたことの報告と感謝)に訪れた鶴岡八幡宮で殺された。義時も御剣役(将軍の刀を持つ役)として同行していた。だが、『吾妻鏡』によると、義時は途中で気分が悪くなり、自邸に帰ってしまう。暗殺時には現場にいなかった。

 もっとも、『愚管抄』によると、義時は暗殺時には八幡宮の中門にいた。実朝の命令で待機していた。同書は京から拝賀に参列した5人の公卿の証言に基づいて記されているから信憑性は高い。

 一方、『吾妻鏡』は北条家寄りの記述が目立つことで知られる。同書は義時のアリバイを強調したかったのか。2つの史書の食い違いの不自然さが、義時黒幕説を生んだ理由の1つになっている。

 江戸時代中期の政治家で歴史学者の新井白石は史論書『読史余論』で黒幕は義時だとし、「公暁に実朝を殺させたのは恐るべき奸計」と断じている。当時の膨大な史書を読み込んだ上でのことだ。

 義時が暗殺の黒幕だとすれば、狙いは幕府の権力を握ってきた頼朝一族の滅絶。実行犯の公暁も義村に命じて暗殺当夜に討たせた。将軍の命を奪ったのだから、誰の反対もなく殺せた。

 頼朝の血を継ぐ男子が一夜にして2人絶命した。実朝の次の将軍になろうとしていた公暁の野心を利用し、義時が最初から2人とも消そうとしていたのだとすれば、恐ろしいまでの策士だ。

 実朝の死から1カ月後の1219年2月、頼朝の弟である阿野全成(新納慎也[47])の遺児・阿野時元(森優作[32])が駿河国(現・静岡県中部)で謀反を起こす。やはり将軍を狙った。

 すると義時はすぐに兵を出し、追い詰め、時元を自害させた。これも誰にも咎められない。義時が頼朝一族の滅絶を狙っていたとしたら、見事に成功した。

「鎌倉殿――」では義村か義時、あるいは両方が黒幕役を果たすのではないか。

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