恩師、元チームメートが明かす村上宗隆の素顔 清宮への嫉妬、宮本コーチの説教に涙した秘話も

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ラーメン屋で野菜大盛り、肉増し、麺を追加

「負けず嫌いは相当なものでした」

 とやはり証言するのは、その後に村上が進学した地元・熊本の強豪校、九州学院で同学年のチームメートだった藤嶽佑大氏である。

「入部早々、1年生だけが参加するバッティング練習がありました。そこでパワーも打球速度も図抜けていたのが村上でした」

 それが認められ、村上は1年でベンチ入り。その夏には甲子園出場を果たした。

「村上は4番でスタメン出場しますが、4打数ノーヒットでエラーもし、チームは1回戦で負けてしまった。“必ず甲子園に戻ってみせる”と言っていましたね」

 ようやく全国区となった村上。1年生で甲子園デビューとは十分誇れる実績だが、それでも彼に注目は集まらなかった。同学年に早稲田実業の清宮幸太郎がいたからである。高校歴代最多の通算111本塁打をマークした“怪物”に3年間、マスコミは集中し続けた。

「ライバル意識をかなり持っていました」

 と藤嶽氏が続ける。

「清宮選手がスポーツニュースに取り上げられるじゃないですか。それに悔しがってというか嫉妬して“絶対に追い越す”と言いながら練習していました」

 97キロの今と違い、当時の村上は体重80キロ超。

「パワーを出すために、この日までに何キロ増やすと目標を立ててメチャクチャ食べていました。彼は実家から通っていたのですが、お母さんに作ってもらった弁当は2リットルタッパーにご飯が敷き詰められていた。一緒にラーメン屋に行った時には、野菜大盛り、肉増し、麺は大盛りの上の“カチ盛り”を注文していましたね」

「エリート街道ではない」

 そんな積み重ねからか、高校卒業時には今と同じくらいの体格へと変貌した。

「やっぱり野球が好きなんでしょうね」

 と当時、同校で監督を務めていた坂井宏安氏も言う。

「練習は休まないし、8時から始まるなら7時半には来る。好きこそものの上手なれ、ですよ」

 坂井前監督が続ける。

「彼はエリート街道を歩いてきたように言われますけど違うんです。1年生では甲子園に出たけれど、2、3年生の夏は県の決勝で負けた。日本代表もアンダー15、アンダー18と続けて漏れて。でも引きずらないんです。高3の夏に負けた時も、下級生に向け“負けたんは3年生のせいたい”“来年はあぎゃん(=勝ったチームのように)喜べ”と。俺はプロで頑張ると、常に前を向いていたからこそあれだけ伸びたんでしょうね。学業成績も決して良くはなかったけど、赤点は取らなかったですよ」

 自分を曲げない、意志の強さもあったという。

「もっと長いグリップのバットが合っていると思っていろいろ勧めてみたんですが、結局、合っていないといって元に戻した。たとえ監督のいうことでも、自分の感覚と違えば従わないということでしょう」

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