恩師、元チームメートが明かす村上宗隆の素顔 清宮への嫉妬、宮本コーチの説教に涙した秘話も

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試合に負けると“午後も練習したい!”

 負けず嫌いも随一。試合に負けると涙を流すことも珍しくなかったという。

「周りに気付かれないように帽子を深く被ってね。“自分が打てなかったから負けた。ごめん”と言っていました。で、そんな時は“午後も練習したい!”と言う。でも小学生って土日の午後は遊びたいじゃないですか。だからチームメートはみな聞こえない振りをするんです。親御さんの都合もあるので“休憩することも大事だよ”と宥めたものです」

 実家の庭で毎晩行う素振りが近所で評判になったことも。その数、少なくても200本、多い時は400本にも及んだという。父・公弥さんがかつてテレビインタビューで明かしたところによれば、スイングが小さくならないようにバットではなく物干しざおを振らせたこともあったというから、昭和のスポ根である。

「その頃はまだ、野球のうまさでは熊本で上位20人に入るくらいで、九州だとゴロゴロいるレベル。ただ、うまくなりたいという意識はとにかく強かったね」

農家の屋根を壊すのでライト方向に打つのが禁止に

 中学を前に村上は、軟式から硬式へとボールを持ち替える。

「印象に残っているのは野球に対する意識だよね」

 と回想するのは、村上が小6の秋から通った「熊本東リトルシニア」の吉本幸夫監督である。

「自分でよく考えて練習していましたよ。自主練でバッティングマシーンを使っても、ただ打つだけではないんです。徐々に近付いて体感速度を高めたり、当時はキャッチャーをやっていましたが、セカンドへの送球時間をチームメートに測ってもらい、速める努力をしたりとか。指導したわけでもないのに、自然とそうした工夫をしていました」

 この中学時代、有名になったのがバッティングを巡る逸話である。リトルシニアの練習場はライトの先に農家があった。村上の打球はしばしばネットを越え、小屋にぶつかって屋根を壊してしまうため、監督はライト方向へ引っ張るのを禁止に。それが今に至る「広角打法」を生んだ――というものだ。

「ただ、もちろんうまかったけどプロに行くほどとは思わなかった。でも、意識の高さとかキャプテンシーはすごかったよね。最上級生になった時には、こっちが指示しなくても彼の主導で自分たちで練習していましたし、ノックの時などは“サード来い!”とか“ナイスプレー!”とか、驚くくらいずーっと声を出している。試合の時も自分で判断してマウンドに行ってたよね。お手本として、その姿を今でも子どもたちに伝えていますよ」

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