なぜ日本と中国はここまで相性が悪いのか 「悪党」が統治し、民主主義を弾圧してきた歴史

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歴史的に国交が存在した時期は短い

 このたび『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)という新著を上梓した。大陸中国の前身をなす「中華帝国」の指導者は、「悪党」ばかりだったというのがモチーフである。「正義の味方」が好きで、「人柄が良さそうな人」を首相にしたがる我々からすれば、そんなところに「国交正常化」の逆説も生じているように思えてならない。

 歴史をひもといてみれば、日中間に国交の存在した時期はさして長くない。1972年の「正常化」以前を数えると、1871年の日清修好条規から始まり、帝国日本が破滅するまでの70年あまり。その間の日中は、2度の戦争をふくむ険悪・相剋の歴史だったと言って過言ではない。

 はるか遣隋使の昔にまでさかのぼれば、日中関係には1400年の歴史がある。ところがその中で、現代的な国交に相当する政府間の交際があった期間は、ごく短い。遣隋使や遣唐使は、不定期で一方通行の使節派遣なので、恒常的な交際とはいえないし、政府間の関係もさして緊密ではなかった。

 10世紀初めまでに遣唐使がなくなると、政府間の通交はいよいよ無きにひとしい。以後は民間ベースの交易関係がメインとなり、平清盛らが主導した日宋貿易はその最たるものだった。1342年に足利尊氏・直義兄弟が派遣した「天龍寺船」もそうした流れの一つである。

日中の「政府間の公式な通交」はうまくいかない

 しかしその間、日中政府間では、13世紀後半に蒙古襲来があった。これまた交渉が暗礁に乗り上げて、戦争と化した出来事である。

 このモンゴル帝国あたりから、民間の交易・交流は活発なのに対し、政府間の政治外交は円滑を欠く、という日中関係の定式ができあがる。こうした険悪な関係の典型は、明代16世紀のいわゆる「後期倭寇」と豊臣秀吉の朝鮮出兵だった。朝鮮出兵とは、とりもなおさず日明戦争である。

 これらの衝突で日中とも懲りたため、17世紀以降はいわゆる「鎖国」となった。険悪な政府間の通交は棚上げにし、欠かせない民間の交易関係だけに限ったのである。そのおかげで日清修好条規まで200年もの間、平穏無事な日々が続いた。つくづく日本と中国は「正常=政府間の公式な通交」においては相性が悪いことがわかる。

 では一体、なぜそんなに相性が悪いのだろうか。これだけ長い歴史があるのだから、一過性の問題ではありえないし、その答えをいきなりつかむのも難しい。まずは目前の情況から考えてみよう。

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