「200キロの巨体で、キレキレのダンス」――中国史上に残る大悪党「安禄山」とは何者だったのか

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 中国史上には数多くの「悪党」が存在する。中でも、唐を滅亡寸前に追いやった安禄山(あんろくざん)は、「平家物語」でも言及され、その名前は日本でも比較的よく知られている。いったいどんな人物だったのか。中国史の第一人者・岡本隆司さんの新刊『悪党たちの中華帝国』から、安禄山に関する記述を再編集してお届けしよう。

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ソグド系突厥人という出自

 安禄山は8世紀初頭に生まれた。史料の記録がまちまちで、正確な生年はわからない。漢字の姓名ながら、漢人ではない。かれはソグド系突厥(とっけつ)人であった。生まれたのはモンゴル高原ともいわれるが、定説はない。

 ソグド人とは、中央アジアのアム河とシル河にはさまれた流域に点在するオアシス都市出身のイラン系種族である。この地域は乾燥草原地域ながら、紀元前6世紀ころから灌漑(かんがい)農業が発展して、サマルカンドやブハラなどをはじめとするオアシス都市が栄え、ソグド人の地という意味で「ソグディアナ」と呼ばれる。いわゆるシルクロードのど真ん中に位置し、ユーラシアの交通の十字路であった。

 ソグド人は近隣の遊牧民と共存してきた。農地に定住する者もいれば、遊牧民と農産物の取引に従事する商人もいたし、また遊牧民化し軍人になる人々もいた。その活躍の舞台は、シルクロードの東西におよぶ。

 商人と軍人はいまでは結びつきにくいけれども、キャラバンの国際貿易が主流だった当時では、遊牧民の軍事力は貿易の安全をはかる役割があった。突厥遊牧民とソグド商人はそこで密接な共存関係にある。ほとんど一体の局面も少なくなかったし、双方の混交転換もしばしばだった。

 シルクロードの東端に位置する唐も、彼らの活動範囲である。都の長安では、経済・文化はほとんどソグド人が牛耳っていたほどで、洛陽その他の主要都市でも、そのネットワークがはりめぐらされていた。

頭角をあらわす安禄山

 ソグド系突厥人の安禄山は、そんな時代の申し子といってよい。父を早くに亡くし、突厥の有力氏族・阿史徳(あしとく)氏の出である母が、ブハラ出身のソグド軍人の首領・安延偃(あんえんえん)と再婚したため、「安」という姓を名のった。安禄山はその後、親族とともに突厥第二可汗国(カガン)を離れて唐へ亡命し、黄河の北・河北地方で活動をはじめる。716年ころのことであった。

 安禄山はそうした経歴から、ソグド語のみならず、突厥語・漢語・契丹(キタイ)語・奚(けい)語など、複数の言語に通じていた。その能力を生かして「諸蕃互市牙郎(しょばんごしがろう)」なる交易の仲買人としての役職をつとめたことがある。その後、范陽(はんよう)節度使につかえた。

 節度使はこのころから設置のはじまった辺境防備軍の司令官であり、安禄山も軍人として頭角をあらわす。安禄山はソグド人らしく、やはり商人でもあり軍人でもあったのであり、742年には遼東半島に近い営(えい)州を本拠とする平盧(へいろ)節度使に抜擢された。

 西暦の742年といえば天宝元年、いわゆる「開元の治」が名実ともに終わったころ。玄宗の長き治世も後半に入って、政務に倦(う)み政治が乱れてきたとの定評である。

 そうした長安の中央政界に、安禄山は登場してくる。節度使は皇帝に直結する建前であって、安禄山は皇帝・玄宗にもとりいって抜け目なく寵遇(ちょうぐう)を受けている。そこは交易・交渉に従事していた前歴が、大いに役立ったにちがいない。

 その時に培ったのであろう、いわば人たらしの術に長(た)けていた。安禄山は200キロの巨躯(きょく)肥満、膝まで垂れ下がった腹に何が入っているのかと玄宗に問われ、「ただ赤心(忠誠)のみ」と答えて喜ばれた、というエピソードは有名である。当意即妙の迎合、余興のダンスも「疾(はや)きこと風の如し」、キレキレにうまかったというから、社交に巧みな技量は一流、およそただのデブではない。

北京の礎は安禄山がつくった

 安禄山はこうした経過をへて、744年には范陽節度使をも兼任し、幽(ゆう)州に拠点を移した。いまの北京である。安禄山は周辺の部族集団の指導者と通婚したり、擬制的父子関係を結んだりして麾下(きか)に組みこみ、多種族混成の強大な軍団を形成していった。

 そのなかには、牧畜を営む非漢人が少なくなかったし、多数の職業軍人が軍鎮に属していたから、かれらを養う資金・物資の調達が欠かせない。必然的に商業が発達し、そこで活躍したのがソグド商人である。

 この方面でも、安禄山の出自・経歴は都合がよかった。安禄山は軍団を率いると同時に、ソグド商人集団の元締(もとじめ)にもなり、中原にひろがるソグド人の交易ネットワークを通じて巨利を得ている。かれの勢力がますにつれ、幽州は農耕・遊牧境界地帯の拠点都市として発達した。いまの北京の淵源(えんげん)は、安禄山にはじまるといってもよい。

 玄宗から寵(ちょう)をえた安禄山は、中央の朝廷とも深い連携を保った。こうしたコネクションは、安禄山にとって勢力拡大の前提だったようである。莫大な賜与(しよ)を得ただけでなく、従前のポストにくわえて、さらに河東(かとう)節度使の任命をうけた。

 安禄山はたとえば、玄宗が寵愛した楊貴妃の「仮子」になっている。これは自身が部下たちと結んでいた父子関係と同じやり方だった。

反乱軍の快進撃と突然の死

 しかし8世紀も半ばになると、局面はかわりつつあった。同じく私的な君寵を通じ、貴妃のまたいとこの楊国忠(ようこくちゅう)が、台頭してきたからである。安禄山とは玄宗の恩寵を争う関係になり、遠隔の地にいる安禄山が劣勢に立たされていった。

 安禄山は755年11月、宰相の楊国忠を誅殺するのを名目に、幽州で挙兵した。率いるは、仮父子関係を結んで忠誠を誓う8千人の親衛隊の精鋭を中核とした、突厥・ソグド・奚・契丹・靺鞨(まっかつ)・室韋(しつい)・漢人など、多種族からなる大軍である。10万を超える安禄山軍は、河北平原を席巻、南下して難なく洛陽を陥れた。挙兵からわずか1カ月あまりである。

 その半年後、西から出撃してきた唐軍と決戦し、潼関(どうかん)でこれを撃破した。これで関中の守りを失った唐の朝廷は、なすすべもなく長安を放棄し、玄宗は退位して四川へ落ちのびる。この過程で楊国忠は殺され、楊貴妃も亡くなった。

 しかし君側の姦臣(かんしん)・楊国忠を打倒したはずの安禄山の運命も、またはかないものだった。757年1月、洛陽で子の安慶緒(あんけいしょ)に殺害されたのである。肥満だった安禄山は、糖尿病の合併症をおこしていたらしく、ノイローゼにもかかっていた。継嗣の安慶緒は身の危険を感じて、先手を打ったのだという。

「安史の乱」の結末

 首領を失った安禄山軍は、まもなく内紛をおこし、安慶緒も統率しきれず、唐軍に敗北した。河北で後詰めをしていた部将の史思明(ししめい)は、759年に安慶緒を殺害して主力軍をひきついで、安禄山の事業を相続する。史思明も安禄山と同じくソグド系突厥人、1日ちがいで生まれたともいわれ、ずっと行動をともにしてきた仲だった。

 この大乱を「安史の乱」とよぶのは、このように安禄山の衣鉢(いはつ)を史思明が継いだことに由来する。衣鉢といえば、末路も同じであって、史思明も761年、子の史朝義(しちょうぎ)に殺され、安史軍の勢力は内紛をくりかえして解体していった。

 かたや唐では、四川に向かった父の玄宗と別れて、西北の霊武(れいぶ)に逃れた粛宗(しゅくそう)が即位し、近隣の軍隊を動員して、安史軍と対抗する。さらに唐はモンゴル高原の新興遊牧国家ウイグルの援軍を得たことで、長安・洛陽の奪回に成功した。

 部将たちの離反があいつぎ、追い詰められて自殺した史朝義の首が長安に届いたのは、粛宗の子の代宗(だいそう)の御代・763年1月。8年の長きにわたった安史の乱は、ようやく終結したのである。

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