【実録・田中角栄】持論は「頼れるのはカネと新潟の人だけ」、番記者に松坂屋の背広仕立券、脳梗塞で倒れた日のこと、政治記者5人の証言

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日中は“裏安保”

全国紙 与野党だけじゃなく記者への気配りも相当なものだったとか。

通信社 番になってすぐの中元に、松坂屋の背広仕立券が届いたんだ。オーダーしたことなどなかったし、生地は“英国製”とあったから驚いた。デスクに相談したら「仮に返してみろ、お前と付き合いが悪くなるぞ」と言う。後ろめたかったものの仕立てて着ていったら、みんな似たような新品の背広を着ているじゃない。当時で3万~4万円、なかなか良いものだった。

TV 今で言えば20万円以上ですよね。“かなり”良いものじゃないですか、先輩。

通信社 そうかもしれないね。舶来のウイスキーやブランデーは目白にずらっと並んでいて、「持ってけ」と言うのでたくさんもらった。当時で1万円は下らなかったな。私が一旦現場を離れる際に、まず佐藤(栄作)のところにあいさつに行くと、その場で20万円くれた。で、佐藤へあいさつしたことを田中に告げたらパッと顔色が変わり、同額を包んでくれたよ。

ブロック紙 新潟に同行取材すると、一流料亭で饗応を受け、土産に新潟特産の着物用生地をくれたことがあった。妻まで買収しようという魂胆でしょうか。こちらも初孫の雄一郎君が生まれた機会を捉え、祝いを贈ったんですが、返礼として毛布が贈られてきた。

全国紙 番小屋で寝そべっていたら、1日目から土産を持たされましてね。妙に軽くて、それこそ背広の仕立券のようでもあり、受け取るか否か、みなちゅうちょしていたんだけど、誰かが開けるのを見たら水戸納豆。茨城が地元の橋本登美三郎(元宣房長官)からもらったもののお裾分けだった。

TV 納豆と20万円とは提灯に釣鐘。記者にカネまで配って手にした首相の座ですが、在任886日では不完全燃焼だったでしょうね。

ブロック紙 看板の日本列島改造が「狂乱物価」をあおり、田中を追い詰めた。あまりのストレスに口元が歪んでいたよ。「扇風機を当てていたらこうなった」と強がるんだ、季節は秋から冬に差しかかる頃なのに。

通信社 そして息の根を止めたのが、74年10月に発表された児玉隆也による『淋しき越山会の女王』。児玉は「彼女は、大井町の、窓を開けると銭湯の煙突の煙が流れこむ安アパートに、六畳一間を借りた。彼女は、ホステスになった」と書いた。彼女とは(佐藤)昭ちゃんのことだね。「児玉には参った。困ったよなぁ」と田中はしきりに嘆いていた。

全国紙 「日中国交正常化」も相当なプレッシャーだった。右翼から剃刀の刃や弾丸を送るぞという脅迫状が山のように届いていた。

地方紙 角さんは後に「表が日米であれば、日中関係は“裏安保”」と解説してくれました。「中国7億の民がソ連の防波堤となる。となれば米国が日本に軍備を強要することはなく、経済発展を推進できる」と。私が師事していたブーちゃんこと伊藤昌哉(政治評論家・池田首相元秘書官)に伝えたら、とても興奮していた。「本当に言ったのか」と。

通信社 池田が大平に下命していたんだな。大平はそれを田中に伝え、自身は外相として支えたわけだ。

〈田中内閣は74年12月に退陣。76年2月、ロッキード事件が明るみに出て、7月に受託収賄等の容疑で逮捕されるが、79年10月、11月の「40日抗争」を勝ち抜き、翌年6月の衆参W選でも存在感を見せつけ、キング・メーカーの名を恣(ほしいまま)にする。逮捕から7年余りの83年10月12日午前10時、東京地裁の最上階「701号法廷」。そこで行われた第一審で懲役4年の実刑判決が下る。〉

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