【実録・田中角栄】持論は「頼れるのはカネと新潟の人だけ」、番記者に松坂屋の背広仕立券、脳梗塞で倒れた日のこと、政治記者5人の証言

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 田中角栄が徒手空拳で権力の階段を駆け上がり、第1次田中内閣が成立したのは、いまから50年前の1972年7月6日のこと。54歳での総理就任は、先日、凶弾に倒れた安倍晋三元総理に抜かれるまで戦後最年少記録だった。そして、この9月には角栄が実現させた日中国交正常化から半世紀を迎える。「今太閤」や「闇将軍」、「金権政治家」といった呼び名が示すように毀誉褒貶(きよほうへん)がありながらも、いまなお高い人気を誇る稀代の政治家。その波乱万丈の政治家人生を間近で見つめていたのが「番記者」である。一挙手一投足を注視してきた5人の男たちが、「それぞれの角栄」を振り返る。(本記事は「週刊新潮/2013年12月19日号」に掲載された内容を転載したものです)

通信社記者 83歳の私にとって、田中との出会いは半世紀以上前のことだから、往時茫々とした感は否めないはずが、まるで昨日のことのように思い出す。不思議なものだね。皆さん、今日はとっておきの話をお願いしますよ。田中は1957年、岸内閣で郵政相に任命される。30代で大臣になったのは戦後初。そして61年に43歳で政調会長に就任し、私は担当になった。郵政相時代にNHKの番組に出演した折、講談の「天保水滸伝」を披露し「郵政大臣の知性は浪花節程度」とメディアに揶揄されたこともあり、そんなものかと思って出向いたところ、「日本列島改造論」の原案をぶった。勉強していて、格差是正の先鞭を付けようとしていたね。

地方紙記者 勉強家で偉ぶらず、シャイだった。私は81年、ロッキード第一審から担当しました。角さんは当時63歳、僕も今その年齢ですがね、子供ほどの年の記者にも丁寧に対応した。ファイルが200くらい並ぶ棚から「秘 国鉄総裁」などと判が捺(お)してある書類を持ち出しては、「勉強する気あるかい。本気なら1面で7、8回は連載できるな、うん」と言う。たまに昼飯に呼んでもらってうな重を食べるんですが、こちらの顔を見ずに「食べろ」とうなぎを寄越す。83年総選挙では娘婿の(田中)直紀(現・参院議員)が出馬することになり、角さんはそれを撤回させようとしたんですが直接言えず、「選挙というものは骨肉の争いになることだってある。止めた方したたがいい」と手紙にしたためた。公私共に角さんを支えた佐藤昭さんもあきれていました。

ブロック紙記者 実力者にありがちな横柄さがなかった。傘寿手前の私は、彼が50歳で2度目の幹事長に就任してからの付き合い。国会内の幹事長室で名刺を出してくれましてね。私の名刺で爪の垢を掬い取り、挙句、破って捨てた河野一郎(元農相)とは大違いだった。

TV記者 今67歳の私は、84年10月の総裁選後から担当になりました。うな重はよく取っていたし、必ず“おいなりさん"がついていて、その両方に醤油をかけるんです。

全国紙記者 しょっぱいのがとにかく好きで、天ぷらそばも伸びてから、醤油をかけ「うまいうまい」と食べる。今年で古希の私は、角栄が首相になった72年7月7日からの担当です。番(記者)は16人で、田中自ら図面を引いて目白私邸内の倉庫を改造して作った20畳くらいの「番小屋」にたむろしていました。角栄の朝は早く、5時に起きて新聞を読む。そして6時過ぎには陳情客を乗せたバスの一団が押し寄せてくる。

地方紙 夜も早く、宴会の料理にはあまり手をつけず、8時には帰宅して家で茶漬けをすする。一度寝て、12時くらいに起きて書類を見るなど勉強した後にまた寝る……昔からこのサイクルは変わらなかったようですね。

通信社 私は佐藤派全体をカバーしていたので、当時首相だった佐藤(栄作)の住む世田谷・淡島にも夜討ち朝駆けをしていた。玄関脇の応接室で佐藤と雑談しているところへ田中が「やあ」とやってくると、佐藤から「席を外してくれ」と言われることがままあったね。そんな時に限って、秘書が百貨店の紙袋を提げてついてくる。彼はボスにカネを渡しにきていたんだ。

ブロック紙 私の場合、朝が田中で、夜は“趣味は田中角栄”が口癖の二階堂(進)のところへ通っていた。田中の胸中を代弁するのが二階堂の役回りで、ロッキード事件に巻き込まれていた頃は、「(舌鋒鋭く角栄を批判する)三木(武夫首相)が言えた口か」と三木のカネヘの執着ぶりを当て擦っていた。

通信社 三木派の連中は敵対しているのに平気でカネを無心していた。「あなたの悪口ばかり」と佐藤昭ちゃんが忠告しても、「カネないんだから渡してやれ」と田中は聞かないんだ。

ブロック紙 彼の持論は「僕には誇るべき学歴も閨閥(けいばつ)もない。頼れるのはカネと新潟の人だけだ。宏池会の公家さんとは違う」。池田勇人、大平正芳ら大蔵省出身の政治家が多く、金融機関からの献金が豊富な宏池会とは違って、カネは自分で作らなくちゃいけないということだね。さらに「カネは渡すよりもらう方がつらい。だから素直に受け取ってもらえるように配るんだ」とも言っていた。受け取りやすいのは弔いの場面だとわかっていたのでしょう。香典がひとケタ違って50万円なんてことも。田中の従兄弟で田中利男という秘書がいましたが、彼の朝一番の仕事は朝刊全6紙の訃報欄のチェックだった。

TV 角さんの「結婚式は招待状がなければ行けないが、葬式は見つけたらすぐ行け」は箴言(しんげん)です。

ブロック紙 71年、民社党の西村栄一(委員長)が急死した際、新聞紙でカネを包んで、春日一幸(副委員長)の部屋へ入った。「民社党はカネがいるだろうから使ってくれ。ありあわせのものだけど」と言う田中に春日はいたく感謝していた。

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