官僚の面従腹背をどう防ぐか エリートの心を一瞬で掴んだ角栄の「殺し文句」

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大臣の人心掌握術とは

 財務省の文書改竄問題や防衛省の日報問題の真相はいまだ不明だが、はっきりしているのは大臣と官僚との関係がうまくいっていないこと、あるいはそのせいで機能不全が起きているということだろう。

 もともと大臣は官僚にとっては、短ければ数カ月、長くても数年しかいない上司だ。それだけに面従腹背という事態を招きやすい。逆に言えば、短い時間でどれだけ官僚の心を掌握するかが大臣の腕の見せ所となる。

 この点、伝説となっているのが、田中角栄が大蔵大臣に就任してすぐに、大蔵官僚を前におこなったスピーチだ。言うまでもないが、大蔵省は現在問題の財務省の前身。当時も今も省庁の頂点に君臨する組織で、官僚たちはエリート中のエリートだ。そのエリートたちの心を田中は、「殺し文句」を用いて瞬時につかんだとされている。

 以下、古今東西の「殺し文句」を扱った『ザ・殺し文句』(川上徹也・著)の記述をもとに、この時のエピソードをご紹介していこう。

 田中は1962年(昭和37年)に、第2次池田改造内閣で大蔵大臣に就任した。44歳での蔵相就任は憲政史上最年少だ。

 大臣に就任した田中は、大蔵省の講堂でなみいる大蔵官僚たちに向かって、こう話しかけたという。

「自分が、田中角栄である。こ存じのように、わたしは高等小学校卒業。諸君は全国から集まった秀才で、金融財政の専門家だ。しかし、棘のある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきている。

 しかし、今日から諸君と一緒に仕事をすることになるのだが、わたしは、できることはやる、できないことは約束しない。これから、一緒に仕事をするには、お互いをよく理解することだ。

 今日から、大臣室の扉は常に開けておくから、我と思わん者は誰でも訪ねて来てくれ。上司の許可はいらん。仕事は諸君が思うように、思いっ切りやってくれ。しかし、すべての責任は、この田中角栄が負う。以上」

相手のプライドをくすぐる

 高等小学校卒の土建屋あがりの大臣が来たとたかをくくっていた大蔵官僚たちは、この挨拶で表情が変わったという。「この大臣はタダものではない」と認識したのだ。

 これだけではない。

 新人の入省式の時には、大臣室で待つ20名の新人官僚の前に現れた田中大臣は、並んだ一人一人と握手をしながら「やー〇〇君、頑張りたまえ」と全員の名前を間違えずに呼びかけていった。メモも見ず、秘書官が耳打ちしたわけでもない。あらかじめ20名全員の顔と名前を覚えていたのだ。

 これには最難関の試験をくぐりぬけてきたエリートたちも度肝を抜かれた。さらに、彼らにはこんな訓辞をして、心をつかんだ。

「諸君の上司には、馬鹿がいるかもしれん。諸君の素晴らしいアイデアが理解されないこともあるだろう。そんな時は俺が聞いてやる。迷うことなく大臣室を訪れよ」

 2つのスピーチに共通するのは、何かあれば「大臣室に来い」という部分である。これが官僚への「殺し文句」となったのだ。川上氏はこう解説する。

「大臣である田中に、いつでも部屋を訪ねてきてくれ、と言われれば、官僚とくに新人官僚はプライドがくすぐられるわけで、悪い気がするはずがありません。

 結果として、官僚には田中シンパが増えていったのです。

 かつて小渕恵三元総理が頻繁に使ったとされる“ブッチホン”も似たような手法ですね。小渕さんは、新聞や週刊誌に自分について批判的な記事が出た時に、わざわざ書いた記者に電話をして『励ましてくれてありがとう。参考にします』『反省して頑張ります』などと伝えたそうです。

 記者は驚くと同時に、わざわざ総理が感謝の言葉を伝えてくるのですから、プライドがくすぐられる。

 話し手の地位が高い場合、このような『プライドをくすぐる』言葉は殺し文句となりやすいのです」

いかにしてなめられないようにするか

 田中は官僚の中でも特に課長、課長補佐という実務の中心にいる世代を重視した。次官や局長では自分の言うことは聞かないだろうという読みからだ。

 課長や課長補佐の入省年次、学歴、誕生日、家族構成、奥さんや子供の誕生日や結婚記念日まで細かく調べあげ、これと思う人材は自宅へ呼んで大蔵省内部の事情を聴き、実務の内容をくわしく尋ね、高価なお土産をもたせた。また結婚記念日、子供の入学などにもこまめに祝儀を贈った。

 こうして課長たちは、次第に田中に信頼をよせるようなり、省内の細かな情報さえも報告するようになったのだ。

 そして次官や局長などから説明を受ける時、「ここはおかしいんじゃないか」と事前に課長たちから得た情報を元にやり返したという。次官や局長は現場のことをすべて把握している訳ではないので、答えに窮してしまうこともしばしば。こうして次官や局長たちも田中に一目置くようになっていったのだ。

 国民の代表である政治家を官僚が軽視することは本来許されるものではないだろう。しかし、一方で政治家の側にも自然と敬意を持たれるような言動が求められるということなのかもしれない。「だれでも訪ねてきてくれ」「すべての責任は自分が負う」と言ってくれる大臣はどれだけいるのだろうか。

デイリー新潮編集部

2018年4月16日掲載

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