新自由主義の中で働く人の「心」に何が起きているか――東畑開人(白金高輪カウンセリングルーム主宰)【佐藤優の頂上対決】

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心は誰かに守ってもらうもの

東畑 佐藤さんが心というものに関心を寄せられた原点は、どこにあるのですか。

佐藤 中学1年生の時の学習塾ですね。国語の授業で夏目漱石の『こころ』を読んだのですが、先生が「心の中の罪という概念を、近代の日本にわかりやすく導入したのが漱石なんだ」と解説してくれました。そしてその背景には、漱石がイギリスに留学して同化できずに帰国したことがある。それは語学でなく思考の基本が違っていたからだ、といったことも教えてくれたんですよ。

東畑 中学生を相手に、それはすごく本格的な授業ですね。

佐藤 受験という枠を超えて、いろいろ教えてもらいましたね。その先生がいなければ、私は無線機を組み立てたり壊したりしているだけの中学生だったかもしれない。小学6年生の終わりにアマチュア無線の免許を取って、当時は無線機のことで頭がいっぱいでしたから。

東畑 あの小説は、親友を裏切ったという告白ですよね。

佐藤 すごい衝撃でしたね。それで内発的な声に耳を傾けるようになった。無線機からはそんな声は聞こえてこないですから。

東畑 なるほど!

佐藤 もっとも私にとって無線機は、ある意味、小舟のオールみたいなものだったんです。小学6年生の夏休みに母の郷里である沖縄に行って、A型肝炎にかかってしまったんですよ。それで2学期を全部休んだ。当然ながら成績がものすごく下がります。小学生ですから、普通に暮らしてきた人生が、すべてダメになったように感じた。その時、父が考えたのは、中3レベルの学力が必要な「電話級アマチュア無線技士」の免許を取らせることだったんですよ。

東畑 それはいいアイデアですね。

佐藤 息子が自信を失っている。それなら他の小学生が持っていない国家の免許を取らせれば自信を回復し、気持ちも前向きになるんじゃないかと考えた。そういう経緯がありましたから、無線機に夢中でした。

東畑 そこへ『こころ』で、内面に出会うことになった。

佐藤 勉強が遅れたので、自分から学習塾に行きたいと頼んだんです。そこでその国語の先生に出会った。早稲田の商学部出身で、ものすごい読書家でした。マルクスもサルトルも読んでいるけどやはりニーチェだ、みたいな話もしてくれた。その先生によって塾が抜群に面白くなったんですね。他の科目でも、数学は東大全共闘の活動家だった先生で、これもすごく刺激的でした。だから私はこの学習塾によって知的な世界に開かれたと思っています。

東畑 それは得難い体験でしたね。

佐藤 私は恋愛や進路の相談もしましたから、どこか臨床心理士的な役割を果たしてくれたんですね。当時の塾はまだ堂々と行く場所ではなくて、ちょっと社会のマージナル(周縁)なところだったんですよ。

東畑 まさに私たちカウンセラーはマージナルな仕事です。そもそも社会とうまくいかないところに心が表れてくるところがあるわけで、治療者とは基本的にマージナルな存在です。沖縄の野巫や西欧の魔女も、マージナルな存在でした。

佐藤 既存の秩序に収まらない一種のトリックスター的存在が方向を指し示すわけですね。

東畑 その通りです。精神科医の中井久夫さんが「平野と森の文化」ということを言っていて、平地には都市があり、森には追放された人がいる。

佐藤 狼男とかね。

東畑 そう。魔女がいるのは、森から少し入ったところで、そこに平野から人がやってきて、ちょっと魔女と話をして戻っていく。魔女は心の治療者なんです。そこから奥は狼男の世界で、もう普通の人間が行くところではない。

佐藤 その曖昧な領域にいることがカウンセリングで非常に重要になってくるのですね。悩みを抱えている人間には、そうした場所からのアドバイスがよく届く。私は学生時代も外務省時代も、あるいは作家になってからも、そうした人との出会いが数多くあったという点で、非常に恵まれていたと思います。

東畑 結局のところ、いい人と出会うということが人生で最も大事なことだと思いますね。自分を大切にしてくれる人と出会う。それは人を信じることにもつながります。

佐藤 東畑さんは著作の中で、他者に助けを求めることの重要性を説いておられましたね。

東畑 私たちは、自分の心は自分で守るものと思いがちですが、心は誰かから守ってもらうものだと思います。その上で、自分でもできることをする。ただ、頼れる他者がいない、見つからないということもあります。その場合は近くにいる人でもいいんですよ。人は、助けを求められたり、相談を受けたりすると、それに応えようとするものですから。

佐藤 他人は思っているほど、冷たくはないということですね。

東畑 私たちは人から頼られるとうれしいし、役に立てると良かったと思います。だから案外、助けてくれるものです。もちろん、できることには限りがありますが、苦しみをシェアしようとしてくれる人がいることだけでも心の支えになりますから。

東畑開人(とうはたかいと) 白金高輪カウンセリングルーム主宰
1983年生まれ。京都大学教育学部卒。同大学院博士後期課程修了。博士。臨床心理士、公認心理師。沖縄の精神科デイケア施設を経て、十文字学園女子大学准教授を務め今年3月に退職、現在は白金高輪カウンセリングルームを主宰して、臨床を行っている。著書に『野の医者は笑う』『居るのはつらいよ』(大佛次郎論壇賞、紀伊國屋じんぶん大賞)『心はどこへ消えた?』など。

週刊新潮 2022年7月21日号掲載

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