テニス国内169連勝の福井烈、なぜ小柄なのに勝てた? 本人は「突出した武器がない」(小林信也)

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 スポーツ界では“松坂世代”という言葉が有名だが、1956年生まれの私の年を代表するのは瀬古利彦、ひとつ上が江川卓、ひとつ下は山下泰裕とテニスの福井烈(つよし)ではないか。

 福井は高校時代、国内で一度も負けたことがない。インターハイ3連覇を含む169連勝。とてつもない強さを誇った。

「私には突出した武器がありません。足の速さも持久力もパワーも。細かな動きが速かったくらいで、あとは読みと反応のよさかな。ミスは少なかった」

 福井が謙虚に振り返る。身長は170センチに満たない。テニス界でも小さな方だ。

「どういうわけか負けませんでした。3年間、シングルスでは1回もセットを取られていません」

 さりげなく驚くべきことを言った。その圧倒的な強さを支えた福井の武器は一体何だったのか?

ショートバウンドで打つ

 テニスを始めたのは11歳、小学5年生の冬。

「生まれ育った門司(現北九州市門司区)に元全日本チャンピオンの木全(きまた)豊子さんが経営するテニスショップがあって、近くのコートで子ども教室を始められた。私はその1期生でした」

 すっかりテニスが好きになった福井少年は、中学に入ると毎日コートに通い、大人たちの練習に参加した。自分が強いという自覚はなかった。何しろ、練習相手は大人ばかりで、まったくかなわない。ところが、

「中学2年の夏、全日本ジュニアの15歳以下に出場したら優勝してしまったのです。次の年、中3の時も優勝しました」

 連覇を果たした福井は当時テニス界では「最強」と誰もが認める柳川商(現柳川高)から誘いを受けた。古賀通生(みちたか)監督率いる柳川商はその時すでにインターハイ団体で6連覇中だった。

「柳川商に行けば強くなれると思って入学しました。練習の厳しさは有名でしたが、想像よりきつかった。学校の中に寮があって、目の前がテニスコート。朝練習、放課後練習、夜は体育館で練習。ああ、今日も生きていた、そんな感じで、寝るともう朝、その繰り返しでした。とにかく、練習量は間違いなく日本一だったでしょう」

 福井が言った。「でも」と私は尋ねた。部員たちはみな同じ練習をしていたはず。その中でなぜ福井だけが圧倒的な強さを誇れたのか? 少し考えて、福井は語り始めた。

「海外の選手と対戦し始めたら、ジュニアでもパワーがすごいんです。パワーに対抗するには何か自分の武器が必要だと痛感して、パワーがない分、タイミングを速くしようと考えた。それでショートバウンドで打ち返す練習をやりました」

 バウンドしたボールが浮き上がってから打つのでは平凡なリズムになる。自分はショートバウンドで打ち返してリズムを変える。相手に余裕を与えない、そう考えたのだ。

 伊達公子がライジング・ショットで一世を風靡するのはその後だ。ビヨン・ボルグ(スウェーデン)がトップスピン打法で王座に君臨する少し前、福井はそこに気付き、「ショートバウンド」でタイミングの速いショットを打ち、自分のペースに持ち込んだのだ。

 そしてもうひとつ、武器があった。

「バックは得意でした。バックハンド・ストレート。あのころみんなバックハンドはスライスでした。私はバックハンドでドライブをかけた。少年野球で右投げ左打ちだったから、それほど難しくなかった」

 スピードとキレのあるバックハンド・パスは福井の得点源となった。

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