「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」と頼りの娘から言われた日 絶望を乗り越えてきた岸田ひろ実さんの手記

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「これまでの私の人生を振り返ってみると、大きな三つの辛い出来事がありました」――そう語るのは、岸田ひろ実さん。

 その三つの出来事とは、授かった長男・良太さんがダウン症だったこと、39歳だった夫の急逝、さらに自分が大動脈解離の手術の後遺症で突然歩けなくなったこと。でも、それらは決して悪いことばかりではなく、自分にとっての転機だったと振り返る。

 立ち直れないほどの困難に直面した当時、どう考え、どうやって乗り越え、現在はどう受け止めているのか。岸田ひろ実さんによるエッセイ集『人生、山あり谷あり家族あり』から3回に分けて紹介する。

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ある日突然、歩けなくなる

 岸田ひろ実と申します。車椅子に乗って暮らしています。もしかしたら、「あ、かわいそうだな」「大変そうだな」「何かしてあげないといけないかな」と、そんなふうに思われた人もいるかもしれません。

 14年前まで、私は普通に歩いていました。歩いていたときの私も、きっとそういうふうに考えていたと思います。「かわいそうだな」とか、「不幸せそうだな」とか、マイナスのイメージがありました。でも私は、実はこれまでの人生の中で今が一番幸せだと思っています。歩いていたときより、今のほうが楽しいです。幸せです。夢もたくさんあります。希望もたくさんあります。毎日ワクワクして生きています。

 歩けなくなった日――私は突然、大動脈解離という病気に襲われました。心臓から出ている太い血管が裂けていく病気です。これが裂け切ったらもう即死という状態でした。救急搬送された地元・神戸の病院で宣告されたのは、8割以上の確率で命を落とすでしょうということでした。緊急オペに入りました。10時間のオペを経験したあと、幸いにも一命を取りとめることができました。そして麻酔から覚めた私は、まったく足が動かなくなっていました。胸から下がまひしてしまったのです。その日から絶望と向き合う日々が始まってしまいました。

 私には家族がいます。長女と、そしてダウン症と知的障害がある長男。3人家族です。

 夫は病気で突然、亡くなってしまいました。私にとって頼れる存在であるのは、たった一人、高校1年生の長女でした。そんな長女は歩けなくなった私を、毎日毎日励ましてくれました。

「ママ、大丈夫だから。何とかなるから、一緒に頑張ろう」

 本当に、一生懸命励ましてくれました。でも、そんな励ましは私にとってまったく響かなかったのです。心に届かなかった。それはどうしてか……今まで普通にできていたことがまったくできなくなっていたからです。

 たとえば、寝返りをうつことも一人ではできません。ベッドから起き上がることもできません。もちろん車椅子に乗り移ることも無理でした。お風呂も一人では無理。トイレも一人では無理。無理なことばっかりです。そんな私に「大丈夫だよ」って言われても、何が大丈夫なのか。毎日毎日ベッドで泣いていました。しかし娘がくると、娘にはこれ以上苦労をかけたくない、落ち込んでいる自分の姿を見せたくないという私の意地があったので、いつもいつも笑ってやり過ごしていました。大丈夫、大丈夫、私は大丈夫だよ――そう繰り返していました。

車椅子から見た風景

 ある日、大きな転機がやってきました。何となく自分で動けるようになってきた頃、病院から外出許可が出ました。娘は私に言いました。

「ママ、三宮の街に行こう。歩いてるときと一緒のように、また三宮に買い物に行ってご飯食べに行こうよ」

 入院してからもう半年以上経っていたので、久しぶりに外出できるのがとてもうれしかったです。たとえ車椅子でも、また前みたいに楽しめるかもしれない。そんな思いを持って、娘と2人で三宮の街に出かけました。

 ところがその気持ちも、たったの1時間も経たないうちに崩れ落ちていきました。

 歩けていた以前なら、数十秒で行けた距離。しかし、そこには越えられない段差がありました。階段がありました。行けない、どうやったら行けるんだろう? 誰も教えてくれませんでした。お手洗いに行きたいっていっても、普通のトイレには行けません。車椅子トイレ、どこにあるんだろう、と探す必要がありました。いちいち何をするにも大変です。そして混雑している道路を通るにも、車椅子には幅があります。なので「すいません、ごめんなさい、通らせてください」、謝ってばかりいました。

 そうして、落ち込んだ気持ちを持ったまま、ようやくたどり着いた夕食のお店。パスタを食べようということになって、パスタ屋さんに入りました。やっと、車椅子でも入れるお店を見つけたのです。でも、そのお店、通路が狭かったです。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながらやっと通らせてもらって、テーブルに着くことができました。その時、気持ちが溢れました。

「もう無理じゃん、車椅子でも大丈夫って言われたけど、結局、車椅子で外に出るとこんなにつらいことがいっぱいある。もう無理だ」

 気持ちは限界になっていました。そしてとうとう娘に言ってしまいました。

「もう、なんでママ生きてるんだろう。死んだほうがましだった、死にたい」

 私は娘の顔を見ることができませんでした。きっと泣いて、「ママ死なないで、何でそんなこと言うの?」と言うと思っていたんですね。

「しまった、言ってしまった」と思いながら恐る恐る娘の顔をのぞいてみました。すると娘は……パスタをパクパク食べていました。えっ、今それ食べる!? 娘は私に言いました。

「うん、知ってるよ。きっとそう思ってると思ってた。だから死にたいなら死んでもいいよ」

 言ってもらった私のほうがびっくりしてしまいました。「え? 死んでもいい? そこは死なないでって言うところじゃないのかな?」と思ったんですが、死んでもいいという選択肢を与えてもらったら、私は一体、何にこんなに落ち込んでるんだろう、とも思いました。

 娘は続けて、

「きっと死んだほうが楽なくらい、ママが苦労してしんどいの知ってるから、死んでもいいよ。でも私にとってママはママだから。歩いてても歩いてなくてもママはママで、変わらず私を支えてくれてるから、私にとったら何にも変わらない。だから大丈夫。大丈夫大丈夫、2億%大丈夫だから」

 と言ってくれました。

「2億%大丈夫」というような、聞いたこともない確率に「じゃあ、娘を一回信じてみよう」と思いました。もう、歩けてても歩けてなくてもどうでもいいやと思いました。

 娘に本当の気持ちを話したということだけで、私はすごく気持ちが楽になりました。歩けてても歩けてなくても、生きてるだけで娘の役に立ってることがあるかもしれない。だとしたら私もこれからまた何かできるかもしれない。歩けないことばっかり悔やんでても、落ち込んでるばっかりでも何も楽しくない。

「歩けなくてもできること、車椅子の私にしかできないことは何だ? 何かないかな?」。そんなことを思い始めるようになりました。そうすると不思議です。なんだか外に出たくなります。何かやってみようと思いました。そして何とかリハビリ生活を乗り越え、私はある程度自分で動けるようになって、病院を退院することになりました。

 どんどん外に出るようにもなり、たくさんの人と知り合うようになりました。街へ出ると、今まで気付かなかったことにたくさん気付くようになりました。どうしてここからそこに行けないんだろう、どうしてこの物を使いたいのに使えないんだろう。そしたら、「行けないところを行けるようにしたらいいんじゃないか? 使えない物を使えるようにしたらいいんじゃないか?」。そんなことをいつもいつも考えるようになりました。

 今、車椅子ユーザーの視点から、気付くこと、わかることを、伝えるのが私の仕事です。

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『人生、山あり谷あり家族あり』より一部抜粋・再構成。

岸田ひろ実(きしだひろみ)
1968年大阪市生まれ。ダウン症で知的障害のある長男の誕生、39歳だった夫の急逝、さらに自身が大動脈解離で受けた手術の後遺症によって車椅子生活になる。リハビリ中から心理学を学び始める。2011年、娘・奈美が創業メンバーである株式会社ミライロに入社し、同社主催講演などの講師を務めていた2021年、感染性心内膜炎で再度の心臓手術を受ける。2022年5月現在は退社し、講演やコンサルティングなどフリーランスで活動中

デイリー新潮編集部

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