日本に密入国した北朝鮮「女スパイ」 配下の男性工作員を働かせるために使った“秘密の手法”とは

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 日本の公安警察は、アメリカのCIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)のように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を十数年歩き、昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、戦後5年間日本で諜報活動を行った北朝鮮の女性スパイについて聞いた。

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 1949(昭和24)年、日本は敗戦のショックから立ち直り始め、繁華街は活気を取り戻していた。福岡市にある「キャバレー・K」は、連日満員の盛況だった。その店に売れっ子のホステスがいた。南信子(20)。他のホステスと違って、初々しさがあったという。

「実は、彼女の本名は南信姫(なんしんき)で、北朝鮮のスパイだったのです」

 と語るのは、勝丸氏。

 南信姫は1929(昭和4)年、平壌で4人兄弟の3番目、長女として生まれた。父親は平壌市役所の下級職員で、実家が雑貨商を営んでいたため、裕福だったという。

「南は朝鮮労働党に入党し、1948(昭和23)年、民族保衛省に配属されてスパイ訓練を受けます。その一環で小学校の頃から日本語を習っていましたが、日本人と同様の発音ができなかった。特に濁音が駄目でした。それで1年かけてマスターしたそうです」

「肉体訓練」

 尾行、盗聴、カメラや無線機の扱い方など、厳しいスパイ訓練を受けた。

「中でも週に2回行われていた『肉体訓練』は特別でした。自分の体を武器にして、男性からの情報収集の仕方を教わっていたのです。教官から『男に体を与えても、心はいつも冷えていなければいけない。寝物語で取れる情報は貴重なものが多い』と言われたといいます」

 1949年、彼女は北朝鮮の元山港を出て下関港から日本に潜入した。日本で工作資金を稼ぐため、当時薬品として貴重だったソ連製のサントニン(駆虫剤)5キロ、ヘロイン1キロを持ち込んだという。

「下関には、在日朝鮮人の男性の協力者が待機していました。2人は新婚夫婦を装い、門司の旅館にしばらく泊まった後、福岡市に入ります。南の任務は、在日北朝鮮人の青年を集めて情報工作機関を設立することでした」

 そして、在日米軍基地や軍需産業の調査、在日朝鮮人の青年からスパイに向いた人物を選び、スパイの訓練を受けさせるために北朝鮮へ送り出すこと。さらに彼らを韓国に送り、韓国軍に入隊させてかく乱工作を行おうとした。

「もっとも彼女は、自分でスパイ活動を行わず、主に4人の青年工作員を使って情報収集を行っていました。青年工作員を店に呼び、一般客と同じように接し、店が引けた後は連れ込みホテルへ行って自分の体を自由にさせました。彼女は『私の体は祖国のもの。同志との結合のためにあるの。私の指示を遂行して』と言いつつ、指令を出していたそうです。工作員たちは彼女のために必死に働いたそうです」

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