「チクショー、やりやがったな」 伝説の外交官が明かす “電話盗聴も当たり前”の「外交官」という仕事

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

職務は「国会答弁」から「アメリカ空軍の交通整理」まで

 在日米軍が演習を行うために、日本政府の協力が必要になるときがある。たとえば、日本国内のいろいろな米軍基地から集まってくる米軍機のために空域調整(日本の民間航空機との交通整理)が必要になる場合だ。そういうときは、外務省が日本政府の窓口となり、所管官庁との調整をこなす。要となるのは、北米局安全保障課。安保課長を務めた岡本行夫氏によれば、秘密情報が集まるポストだけに、信じられないようなことも起こるという。岡本氏の手記『危機の外交 岡本行夫自伝』から知られざるエピソードを紹介する。

 ***

第112国会で「答弁に立った回数は151回」

 安保課長は国会での出番も多い。通常、国会答弁は局長のやることなのだが、安全保障案件は、季節性の話題を除けば野党がいちばん政府攻撃に使いたい案件だ。局長は、予算委員会、外務委員会と出ずっぱりで、他省の主管する委員会での質問には課長が「説明員」として答弁する。安保課長は、霞が関でも国会答弁の多いポストであった。1988年の第112国会で僕が答弁に立った回数を課員がカウントしたら、衆議院で98回、参議院で53回の計151回であった。

 ちなみに有馬龍夫北米局長の安保関係の答弁数は、同じ国会で衆参合わせて347回もあった。局長は更に安全保障案件以外にも答弁に立つから、大変である。僕は主要課員たちを局長答弁に貼りつけ、僕自身は心配する課員たちを尻目に、誰も連れずに一人で国会の委員会に行った。内心自信がなくても「さあ、なんでも聞いてくれ」という顔をして、分厚い条約集と六法全書を説明員席に積み上げて座った。役人は誰でも国会答弁は嫌いだ。居丈高に質問され、野次られ、しかも反問権はない。議員側は不文律で、国会の議事録をあとから自由に修正することができる。政府委員や説明員に言いたい放題言って、まずかったと思えば、あとから国会の委員部に要請して議事録を修正できるのだ。

 役人側にはこれが許されていない。ひとたび答弁を間違えればおしまいだ。この緊張感は並大抵ではない。だから議員の側、特に野党は、好き勝手に政府批判をやる。答弁の整合性をついて、紛糾させて、委員会審議を止めることができれば得点になる。

 僕は議員の質問が関係各省、または外務省の関係局の担当範囲の間に落ち、誰が答えてもいいような場合は、すべて率先して答えることにした。議員の質問がなされるや、高く手を上げて「委員長ーっ」とやるのである。委員長は誰に答弁させていいか迷ってるわけだから、「またアイツか」と思っても、「岡本安保課長ーっ」と指名してくれる。そう、「アイツはいつも人の分まで答弁したがるヤツだ」という印象を植え付けるのである。

 僕の経験では、そうなると議員は「こいつをいじめても倒れそうもない」と考えるのか、あまりしつこく聞いてこない。気弱に見られると散々やられる。生意気に見られてもだめだ。外務省の答弁者には胸に飾りハンカチを入れさっそうとアタッシェケースに書類を入れていくオシャレな人が時々いたが、こういう人は狙われた。僕は書類はいつも風呂敷に包んで委員会に出席した。

 外務省にはありがたい伝統があった。質問者の欲する答弁をせずに委員会が紛糾して審議が止まっても、省に戻ってからとがめられないことだ。他の役所はそうはいかない。特に自省の所管する委員会を止めたりしたら、その局長は次官にはなれないと言われていた。ましてや説明員(課長)の分際で委員会審議をストップさせたりしたら、あいつは無能力だということになる。

 外務省(たしか防衛庁でもそうだと聞いたが)の場合は、特に安全保障は与野党の思想は基本的に違っているから、いくら説明しても賛成してもらうことは望み得ない。だから政府側の答弁で国会審議が止まってもそれは説明が悪いせいではないと、こういう考えである。僕も野党の要求にどうしても応えられず、それで内閣委員会が止まってしまったことが2回あった。

 国会で野党が突いてくるのは、従来の政府答弁との食い違いである。政府側の答弁にちょっとスキがあると思えば、野党の質問者は「それは従来の答弁の変更ですか?」とたたみかけてくる。「変更です」と答えれば、いつ誰が変えたんだと大変なことになる。従って、答弁する側は、いつも「従来の方針に変更はございません」と答える。だから、従来の経緯がある案件については、国会では前へ進むことはできない。これが国会論議の閉塞感にもつながっている。勇を鼓して「答弁を変更しました」と言えばいいのだが、できない。

 僕の知る限りただ一人それができたのは、宇野宗佑外務大臣だった。過去に三木武夫外務大臣や中川融(とおる)条約局長が「安保条約第4条の随時協議には核持ち込み問題も含まれる」と解される答弁をした。1988年3月の衆議院外務委員会で、共産党の岡崎万寿秀(ますひで)議員がこの問題に切り込んできたときに、宇野さんは「核持ち込み問題は条約第6条の事前協議の下でしか扱われない」と答弁した上で、「私は政治家として申し上げますが、私の答弁以外の答弁は解釈を間違えられたのでしょう」と答えたのだ。条約の有権解釈者がこう答弁してしまったら、野党側も食い下がる手だてはない。

 宇野さんは、異能の外務大臣であった。ピアノも弾くし、漢詩もたしなむ。幅広い教養人で、僕は好きな人であった。女性問題で失脚したのはまことにもったいなかった。宇野大臣の演説原稿を準備したが、ボツにされたことがあった。宇野さんは遠くから僕の姿を見て「おーい岡本お、あの原稿なあ、必ず別の場所で使うから待っとれよう」と叫んでくれたこともある。温かい人であった。

 朝の5時には国会の答弁資料を読み始め、官僚たちが朝8時ぐらいからの勉強会に参集する頃は、全ての資料をそしゃくしてより一段深い質問をする人でもあった。宇野政権が2年間でも続いていれば、湾岸戦争になっていたわけであり、日本の対応策も少なからず異なったものになっていただろう。

日本の秘密情報がソ連と中国に筒抜け

 1986年10月、在日米空軍副司令官のディック・トナー少将が僕のところにやって来た。米空軍が沖縄沖、出砂島(いですなじま)周辺で空軍演習をやりたいという。嘉手納からF-15、三沢からF-16、グアムのアンダーソン空軍基地からB-52、というふうに極東に配備された各種の米空軍機が1カ所に集まって演習をして統合指揮訓練をするという。これは僕の着任の前の年に太平洋空軍から要請があり、日本側が準備期間不足を理由に断った経緯がある。米側は強い要望を繰り返し、日本側も1年後なら、と内諾していたいわくつきの演習だ。なぜ日本政府の協力が必要かというと、日本国内のいろいろな米軍基地から集まってくる米軍機のために空域調整、つまり日本の民間航空機との交通整理が必要になるからだ。やるのは、日本の航空管制官だ。

 そこで、僕は運輸省航空局の縄野克彦飛行場部管理課長のところに出かけていった。腹の据わった男で、すぐに引き受けてくれた。縄野さんは、僕が小泉内閣で内閣参与をしていたときには海上保安庁長官で、いろいろ助けてもらった。管制はきちんとやってくれると縄野課長が言ってくれた。僕は感謝した。

 演習は無事終わったが、後日、トナー少将が僕のところへやってきた。

「ミスター・オカモト、問題なく演習を終えることができた。日本政府には感謝する」

 ここまでは型どおりだ。

「なお、ひとつご報告がある」

 トナーはニヤッと笑った。昨日、各基地からの戦闘機が会同する地点の下にはソ連の情報収集艦が2隻、中国の情報収集艦が1隻、それに台湾の船が1隻、陣取っていたという。演習をモニターする特等席だ。ソ連の2隻のうちの1隻はフルンゼだという。そういえばソ連の誇る巡洋戦艦フルンゼは北海から太平洋艦隊へ編入されるべくバルト海からはるばる極東まで航行し、ウラジオストック近くまで北上していた。そのフルンゼがウラジオに入らず道草を食っているのが不思議だったが、途中から反転して戻ってきたわけだ。

 ブッたまげた。外務省と防衛庁で数名ずつ、運輸省で2、3名しか知らない米軍のオペレーションの正確な会同地点の真下になぜいろいろな国の情報艦が集まって待っていたのか。縄野課長が漏らすはずはないが、その先の現場の航空管制官たちは危ない。あとから、航空管制官は通産省の工業技術院技官と並んで最も反戦公務員が多いとも聞いた。しかし、トナーは笑っていた。

「大丈夫。船が集まり始めていたのを察知したから、こっちは、戦闘機同士の交信に、偽情報を交ぜておいたから、ソ連と中国は混乱したに違いない」

 それにしても、日本の秘密情報がすぐにソ連と中国に日本から筒抜けになる。なんという国なのか。

“電話盗聴”も当たり前

 情報漏洩といえば、僕の官舎の電話も盗聴されていた。僕は安保課長から北米1課長に変わっていた1989年4月26日の夜、東京に滅多にないような大粒の雹(ひょう)が降った。僕が電話をするため受話器を取り上げて相手の番号をまわしたら、ガーア、ガーア、ピーイ、ピーイ、という甲高い音がする。いぶかっているうちに、電話の向こうから何とも下品な男の声が聞こえてきた。混線したか。だが、どうも声と話し方に聞き覚えがある。そのうちこの男がつまらないジョークをしゃべり始めた。えっ! 突然、気が付いた。あ、オレの声だ! 昨日の晩にオレがしゃべったジョークじゃないか! チクショー、やりやがったな。多分、雹がどこかに取り付けられた録音機を直撃して機械がプレイバックを始めたに違いない。

 僕は安保課長をやっていたし、盗聴などは当然やられると日頃から思っていたから大きな驚きはなかった。放っておいたが、1週間くらい経って僕の話を聞いた警察庁の友人からすぐに警備局に行くように頼まれた。警察庁から技術者が派遣されてきたが、もう何も見つからなかった。ただ警察庁とのやりとりから、盗聴は日本の政府機関が(僕の国家への忠誠心を疑って)やったことではないことは確信できた。ソ連なのか、北朝鮮なのか、中国なのか、それとも能力からいってアメリカなのか。もちろん真相は未だに分からない。

 ***

『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。

岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。