コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

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 得体の知れないウイルスが襲いかかってきた時、我々は遠ざけようとし、しかし決して避けられない現実を思い知らされた。「死」。受け入れ難(がた)くも受け入れざるを得ないこの不条理とどう向き合うべきなのか。「ポスト・コロナ」論。日本人の死生観を問う。【佐伯啓思/京都大学名誉教授】

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 コロナ禍が始まってすでに2年超が経過した。この疫禍は我々に何をもたらしたのであろうか。

 社会は混乱して、閉塞感が覆い尽くし、経済は停滞した。しかし、これらはいずれもコロナ禍の「現象」であって、「本質」ではあるまい。

 感染症とは、つまるところ自然による人間への襲撃である。それを前にして我々はほとんど無力だった。マスクをし、手洗いを徹底する程度のことはできたものの、実態としてそれ以上はどうすることもできなかった。ワクチンは一定の効果を上げたが、また次の変異ウイルスが出てくる。このような感染症は、営々と築き上げてきた近代文明の力をもってしてもいかんともしがたく、科学技術の進歩によって解決できるものでもない。

突然の「死」という厳然たる事実

 だが、考えてみれば当たり前のことだ。自然災害、戦争、飢餓、そして疫病。我々は常にこれらの不条理に囲まれて生きているのである。にもかかわらず、近代社会において我々は、不条理を視界から消し去ろうとした。万事、科学と技術によって合理的に解決できると信じ込もうとした。それこそが、近代の近代たるゆえんなのだと。

 ところが新型コロナウイルスは、この考え方が大間違いであったことを白日の下にさらした。不条理は合理的に解決することはできない、だからこそ不条理なのだという至極当然の事実へと我々を連れ戻した。

 コロナ禍の不条理、それは突然の「死」という厳然たる事実である。もちろん、コロナでなくとも、最終的に我々は死から逃れることはできない。結局のところ、できることといえば死という不条理をどのように受け入れるかという準備と覚悟を持つことしかない。そのことに我々は改めて気付かされた。そうであれば、現在、我々は死への覚悟の決め方、すなわち死生観を今一度問われていることになる。

〈社会思想家である京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、近年、日本人の死生観についての思索を深めてきた。大きなきっかけは2011年の東日本大震災だったというが、コロナ禍もまた、我々が死生観を問い直す“奇貨”であったのではないかと説く。まずは、この2年超の日本社会のあり様を佐伯氏が振り返る。〉

 コロナ禍により日本社会は大きく動揺した。無論、揺れ動いたのは日本だけではなかったが、西洋社会とは様相を異にしていた。

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