頂上作戦を陣頭指揮したマル暴刑事が語る 関東ヤクザ界のカリスマ「極東会」トップの死の波紋

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最後の“昭和の大親分”

 的屋とは祭りや縁日などで商売をする露天商をいうが、もともとは小さな組織がそれぞれ独立していた。

「それをまとめ上げたのが初代極東会会長の関口愛治でした。一方で、五代目会長の松山氏はそのカリスマ性で極東会の存在感を最大限に高めた人物。84年に山口組の東京進出に対抗するため、関東の賭博系組織がつくった『関東二十日会』と連携し、的屋系組織の親睦団体『関東神農同志会』をまとめたのも松山氏でした」(櫻井氏)

 その後、松山元会長は住吉会や稲川会、松葉会といった関東の巨大組織トップとも親戚づきあいの関係となり、「極道社会のフィクサー」といっても過言ではない存在になったという。

 しかし、92年の暴対法施行以降、暴力団構成員による露店での売り子が禁じられるなど、業界は転換を迫られることになる。

「的屋系組織は売り子にアルバイトを雇うなどしてシノギを継続していましたが、廃業が相次ぐなど厳しい環境下に置かれました。そこにコロナ禍が重なり、祭りや縁日自体が開催中止となるケースが増え、業界全体に激しい逆風が吹く最中での訃報でした」(同)

 松山元会長は現役時代、外に出る時は大勢のボディガードを連れ、“大股で肩で風を切る”といった独特の歩き方で知られていたという。

「それが“ヤクザの粋”と心得た<昭和の大親分>を体現したような人物でした。的屋というシノギが衰退していくのとリンクするように生涯を閉じた、その生き様にはひとつの時代の終わりを感じます。他方、極東会という組織は松山氏の存在で持っていた部分が大きいため、今後の動向には注視が必要です」

デイリー新潮編集部

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