バイデン米大統領が舌禍でおびえた、プーチン大統領「ケンカの流儀」

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「この男は権力の座に居座ってはならないのだ」――3月26日、ポーランドの首都ワルシャワで演説した米バイデン大統領は、千人もの聴衆の前で、そう発言した。“この男”がプーチンを指すのは明らかとしても、目下のウクライナ情勢に、“この程度”の勇ましい発言は「いかにもアメリカ人らしい」ものとして、受け流した人も多いのではないだろうか。

 しかし、発言直後からホワイトハウスは大騒動。ブリンケン米国務長官は、大統領が伝えようとしたのは「戦争を仕掛けたり武力で侵略したりする権限をプーチン大統領に持たせてはならない」という意味で、決してプーチン自体の排除を狙ったものではない、と弁明。バイデン本人も、記者からの「体制転換を求めたのか」との問いに対し「そうではない」と、発言の火消しに躍起になっている。

 国際報道担当の記者が言う。

「国家元首である大統領の排除は、そのまま国家転覆を意味します。今回の侵攻を受けて核の使用を聞かれたロシアの報道官は、『国家存続が脅かされる場合、ロシアの考え方に従って使用され得る』と言明しており、バイデン大統領の発言を額面通り受け取れば、『核のボタンを押したきゃ押してみろ』と挑発したことになります」

 もちろん相手が「常識的な国家元首」なら、そこは我慢するか、見逃すところだが、今のプーチンにそれが通用しないのは世界中が認めるところ。さらに言えば、彼のDNAには、消し去りがたい「喧嘩の流儀」が刷り込まれていた。

子ども時代の「喧嘩」から得た教訓

 プーチン分析の決定版として、世界中から評価されるフィオナ・ヒル氏(ブルッキングス研究所シニアフェロー、元米国家安全保障会議(NSC)欧州ロシア上級部長)が執筆した『プーチンの世界―「皇帝」になった工作員―』には次のような幼少期のエピソードが示されている。

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〈プーチンは折に触れて、レニングラードの子ども時代の個人的な体験――自分の力だけを頼りに生き抜く術を学んだエピソード――を披露している。そして、それらの話こそがロシアの首相や大統領という職務に向き合う姿勢を形作ったのだと彼は示唆する。

 たとえば、インタビューをもとにしたオレグ・ブロツキーによる伝記『ウラジーミル・プーチン――人生の歴史』のなかでは、レニングラードの裏通りや中庭での子ども時代の体験が赤裸々に語られている。「“砂場”の街」と題する章に出てくる、プーチンが7歳ごろに経験したという喧嘩の話を紹介しよう。

 彼は治安の悪い地区の出身で、学校では問題児だったという。そのせいでソ連の少年団《ピオネール》への入団も断られてしまった。すると近所の少年たちと“付き合う”ようになり、集団であたりをうろついては、しょっちゅう喧嘩騒ぎを起こすようになった。インタビューのなかで、プーチンは初めて経験した喧嘩から得た教訓を列挙した。

「私は初めての喧嘩でボコボコにやられ、恥をかいた……その事件で初めて貴重な“授業”を受けたのだ……そこから私は四つの結論を導き出した。

 結論その一。私が悪かったということ。喧嘩の詳細については覚えていないが……私のほうから勝手にいちゃもんをつけたことは間違いない。だから、相手はすぐに私を殴ってきた。自業自得だ……。

 その二。どんな相手に対してもそういう態度を取ってはいけないし、誰であれ敬意を払わなければならない。それはまさに“実践的”な教訓だった。

 その三。自分が正しくても悪くても、どんな状況でも強くなければならない。そうでないとやり返せない……。

 そして、その四。攻撃や侮辱にはいつでもすぐさま反撃できるようにしておかなければいけない。すぐにだ! ……勝ちたければ、どんな戦いでも最終決戦のつもりで最後まで戦い抜く……引き返すことなどできず、最後まで戦う以外に選択肢はないという覚悟でね。のちに、それが有名な鉄則の一つであることをKGBで教えられた。だけど私はずっと前、子ども時代の喧嘩ですでに学んでいたんだ。」

 次第に、プーチンの子ども時代の戦いは正式なものへと変化していった。〉

 ***

 勝ちたければ、どんな戦いでも最終決戦のつもりで最後まで戦い抜く――彼の最終決戦が人類の最期でないことを祈るばかりである。

(引用については、一部表記を変更しました)

※『プーチンの世界―「皇帝」になった工作員―』より一部を抜粋して構成。

デイリー新潮編集部

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