終戦後、共産党幹部の釈放運動を開始した在日朝鮮人たち 驚くべき情報網と活動内容とは

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 終戦後しばらくの間、日本人共産主義者たちは徳田球一や志賀義雄ら戦前の大物活動家がどの刑務所に収監されているかを知らなかった。それを突きとめ、いち早く釈放運動に乗り出したのは在日朝鮮人たちである。彼らの情報網と活動が思想犯釈放を実現させるのだ。

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 1945年9月になると、府中刑務所に最初の面会人がやってきた。

「最初に来たのは朝鮮人です。(略)日本人はこわがって、治安維持法でやられた連中でさえこわがってなかなか来ないのです」(山辺健太郎『社会主義運動半生記』岩波新書)

 訪ねてきたのは、朝鮮人共産主義者だった。

「政治犯釈放運動委員会の代理でキン・セイコウとハイ・テツの二氏がわれわれをたずねてきた」(松本一三「出獄前後 十月十日の思ひ出・下」「アカハタ」1946年10月13日)

 この二人の朝鮮人――キン・セイコウは、当時、在日本朝鮮人連盟準備委員会の副委員長で財務部長だった金正洪、そしてハイ・テツは同じ朝鮮人連盟の、後の中央組織部長兼愛国闘士救護委員会財政責任者の裴哲と見られる。

「最初の連絡がついたのは、金さんという一人の朝鮮人の党員だった。従来のように、面会場でなく、直接監房まで入ってきてくれて、附近の農民からわれわれのために特に贈られたという持ちこみのふかしたてのさつまいもをかこんで、一同万歳を叫んだ」(志賀義雄『日本革命運動の群像』合同出版社)

すぐには釈放されなかった思想犯たち

 9月2日、ミズーリ艦上で帝国政府が降伏文書に調印すると、新聞には米国の占領政策の初期方針「降伏後ニ於ケル米国初期ノ対日方針」が発表された。そこには政治犯の釈放が「政治的理由ニヨリ日本国当局ニヨリ不法ニ監禁セラレ居ル者ハ釈放セラルベシ」と明記されていた。

 しかしながら、徳田球一ら思想犯はすぐには釈放されなかった。共産主義者の椎野悦朗は9月中旬頃には府中刑務所の徳田を訪れ、徳田の部屋に寝泊まりして、予防拘禁所で一緒に生活している。

「徳田は一生懸命、出獄後の運動方針を書いているのだけれども、いっこうに出獄が決まらないのです。徳田らは、所長に何回も即時釈放するよう要求したのですが、ラチがあかず、そこで各自が釈放を求める要求書を書いて司法省に出すことにしたのです」(椎野悦朗「政治犯の釈放と日本共産党の労働運動方針」法政大学大原社会問題研究所編『証言 産別会議の誕生』総合労働研究所)

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