終戦後、共産党幹部の釈放運動を開始した在日朝鮮人たち 驚くべき情報網と活動内容とは

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マッカーサー宛ての手紙

 椎野は出獄後の共産党の活動方針を議論して一夜を明かすと、徳田より2通の手紙を託された。一通は連合国軍総司令官マッカーサーへの政治犯の即時釈放を求めた手紙、もう一通は収監されていた朝鮮人共産主義者の金天海から金斗鎔に宛てた手紙であった。

「徳田は『それじゃ、ソビエト軍が日本に来ているから連絡へ行ってくれ』と言うのです。マッカーサー宛の政治犯の即時釈放の嘆願書を志賀に英文で書いてもらうから、これをソビエト代表部のデレヴィアンコ中将を通じてマッカーサーに届けてくれ、ということでした」(椎野・同前)

 椎野はやっとの思いで、横浜のソビエト代表部を探し出し、志賀義雄が書いたマッカーサー宛の手紙を受付に渡した。だが3時間も待たされた上に、担当者は、「これはマッカーサー宛になっているから、東京の司令部に行って渡しなさい」と、受け取らない。

新宿周辺で活動していた朝鮮人

 すごすご東京に戻ってきた椎野は、GHQ本部となった皇居前の第一生命ビルに揚がる星条旗を前に、「果たしてマッカーサーのところに行けるのだろうか?」と自信を失い、作戦を変更する。まずは金斗鎔を探しだし、金天海から彼に宛てた手紙を渡すことにした。

「当時、朝鮮人は新宿周辺で政治犯の釈放や、解放運動に参加するものは集まれ、というようなビラを電柱に張ったりして、活発に運動をしていました。私は、街頭でビラを貼っている人に金斗鎔のことを尋ねたら、たぶん知っているだろうという朝鮮人団体の幹部に案内され、彼の住所がわかりました。金斗鎔は、高田馬場駅近くの散髪屋の二階に、他の朝鮮人と一緒に、いわば梁山泊みたいな生活をしていたのです。私が用件を告げて金天海から金斗鎔宛の手紙を渡したら、彼は大変感激して、早速メシの用意をするやら歓迎されました」(椎野・同前)

 椎野はその後、朝鮮人青年の案内でGHQに赴き、マッカーサー宛の書簡も届けている。

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