戦後の名建築「群馬音楽センター」誕生秘話 アメリカ人建築家を驚かせた高崎市民の熱意

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群馬音楽センター(群馬県高崎市)

 地元の人にとっては見慣れた存在。でも歴史を知ると、かなり立派な名建築であることがよくわかる「身近にある意外な名建築」をご紹介する本連載。5回目の今回は群馬県で半世紀以上にわたって文化の拠点として親しまれてきた群馬音楽センター。設計したのは、日本に多くのモダニズム建築を残した建築家、アントニン・レーモンドだ。まだ日本が豊かになる前、地元の人たちの熱意によって建てられたホールである。『日本の近代建築ベスト50』(小川 格・著)から引用してみよう。

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 群馬交響楽団の拠点のために、高崎市民の熱望によって建てられた音楽ホール。市の予算が乏しいため、建設費の総額の半分近い1億円が市民の醵金(きょきん)によって集められたという。

 1961年、戦後の貧困を克服してやっと芸術を求める余裕が出て来たことを示しているのだが、今からみると、まだまだゆとりの無い時代に、無駄の許されない切り詰めた緊張感が漂った爽やかな建築である。

 この建築は、柱や梁ではなく、少ないコンクリートで大きな空間を覆うことのできる折板(せつばん)構造という折り紙のようにコンクリートの板を折り曲げたような構造を特色としているが、日本では、同時代にできた世田谷区民会館、今治市公会堂とともに貴重な建築である。世田谷と今治が四角い箱のような形に対して、ここは多角形で全体を包みこむ極めて珍しい形である。コンサートから歌舞伎の上演まで多様な機能が要求されたからである。

 工事は地元の井上工業が請け負った。

 当初、レーモンドは、これは非常に難しい工事なので、地方の小さな建設会社では無理だと心配したが、いざ工事が始まってみると、社員が高崎の市民で、誇りをもって熱心に取り組む姿を見て、東京の建設会社よりはるかに良い仕事ができた、と感心したという。

 2階のロビーには大きな壁画があるが、画家に依頼する予算がなかったので、レーモンドが自ら下絵を描いて、市民が分担して色を塗った。レーモンドは妻ノエミと共に絵を描き続けた画家でもあった。いろいろな建築に彼らの作品を残しているが、これは最大の作品である。

 群馬交響楽団の設立から音楽センターの建設まで、一貫して先頭に立って力を尽くしたのは、高崎を代表する建設業者井上工業の代表者、井上房一郎である。

 井上は大学を中退すると、大正12年、25歳でパリへ向かう。その後6年間パリを拠点にヨーロッパ各地を見学、交遊を深め、6年後に帰国し、昭和13年、40歳で社長に就任している。

 パリ遊学の経験を生かした井上は、生涯高崎の芸術文化の発展のために献身的に努力した。

 昭和8年ナチスの迫害を逃れて来日した建築家ブルーノ・タウトを助けて高崎の少林山達磨寺の洗心亭を紹介し、2年間保護したことはよく知られている。

 終戦後、ただちに群馬交響楽団を創設し、その翌年には市立高等女学校で第1回演奏会を開き、県内の小中学校を廻る「移動音楽教室」を始めている。移動音楽教室を聴いた生徒は毎年300校、20万人にのぼった。この活動が映画「ここに泉あり」に描かれ、全国に感動を与えると、高崎は音楽の街として知られるようになる。

 この建築は1961年という、やっと復興が軌道に乗った時代に、市民とスポンサー、音楽家たちが心を一つにしてなしとげた貴重な文化遺産である。60年間、高崎の、いや群馬県の文化の象徴として市民に愛され支えられて、生きてきた姿は貴重なものだ。

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小川 格(おがわいたる)
1940(昭和15)年東京生まれ。法政大学工学部建築学科卒。新建築社で「新建築」の編集を経て、設計事務所に勤務。相模書房で建築書の出版に携わった後、建築専門の編集事務所「南風舎」を神保町に設立、2010年まで代表を務めた。2022年1月現在は顧問。『日本の近代建築ベスト50』が初めての著書。

デイリー新潮編集部