名建築・広島「世界平和記念聖堂」の“不透明な”誕生秘話 審査員が設計を“横取り”?

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世界平和記念聖堂(広島県広島市)

 地元の人にとっては見慣れた存在。でも歴史を知ると、かなり立派な名建築であることがよくわかる「身近にある意外な名建築」をご紹介する本連載。3回目の今回、ご紹介するのは広島市の世界平和記念聖堂。誕生のプロセスは、もし現在ならば一大スキャンダルとなったかもしれない不透明なものだったが、裏腹に建築は極めて優れたものとなっている。『日本の近代建築ベスト50』(小川 格・著)から引用してみよう。

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 原爆投下後の広島で、復興計画を象徴するように、ほぼ同時に二つの大きなコンペが行われた。世界平和記念聖堂と平和記念公園である。

 審査の結果、記念聖堂は1等なしの2等に井上一典と丹下健三。記念公園は丹下健三と決まった。記念公園の計画は世界の建築界が注目し、これをきっかけに丹下は世界のタンゲへと飛躍した。ところが、記念聖堂は1等なしのため、いつのまにか、審査員の一人であった村野藤吾(1891~1984年)の手によって設計が進められた。

 審査員が1等を出さずに、自分の手で設計を進めてしまうなど許されることではない。

 この建築は原罪を背負って誕生したのである。

 なぜ、そんなことになったのか。詳しい説明はないまま、厳しい資金難のなか、ラサール神父をはじめとする信者たちの献身的な努力により、世界中からの献金によって、4年の歳月をかけて完成する。

 不十分な出来だが「10年後にはなんとか見られるものになりましょう」。村野は、言葉少なく、だが名言を残して広島を去る。竣工後10年、20年後には見るも無惨に劣化してゆく近代建築への痛烈な批判を含んだ言葉であった。また、村野は「ポール・ボナッツの建築を参照した」とデザインの出典を正直に語っている。

 たしかに、鉄筋コンクリートの枠組みの中にコンクリートれんがを埋め込み、静かでも豊かな表情を出す手法はボナッツそっくりである。

 悩ましいのは、不透明な経過にもかかわらず、美談に飾られながら、だれも文句の言いようのない美しい建築に仕上がっていることである。

 丹下が平和記念公園の平和記念資料館で、モダニズムの建築に日本建築の要素を加味して世界の建築家をうならせたのに対し、村野はロマネスクの教会を思わせる前近代的なデザインで関係者を納得させた。

 その当時、村野はすでに経験豊富な63歳に達していたが、丹下は41歳で、本格的な鉄筋コンクリートの建築としては初めての仕事であった。

 一方、村野は戦前に関西建築界の大御所渡辺節の下でチーフデザイナーとして腕をふるい、多くの作品を実現していた。キャリアの差は歴然だ。

 しかも、丹下は大学を卒業しても、日本が戦争に突入し、実際に建築の設計に携わる機会はほとんどなかったばかりか、海外の建築を見たことさえなかったのである。

 二つの建築は、その後の補修によって、丹下は多くの変更を余儀なくされたが、村野の聖堂は補修をしたものの、なにごともなかったかのようにほとんど同じ表情で立ち続けている。そこに建築表現の違い、設計者の力量の差、村野の熟達した腕力を見て取れるのは間違いない。

 そこで、もう一度問いたい。優れた建築は、誕生の汚名をぬぐい去るに十分だろうか?

 終戦直後のきわめて貧しい時に、出来上がった、二つの対照的な建築、それは建築の本質について考えさせてくれる。広島は今もわれわれの興味を引きつけて離さない。

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小川 格(おがわいたる)
1940(昭和15)年東京生まれ。法政大学工学部建築学科卒。新建築社で「新建築」の編集を経て、設計事務所に勤務。相模書房で建築書の出版に携わった後、建築専門の編集事務所「南風舎」を神保町に設立、2010年まで代表を務めた。2022年1月現在は顧問。『日本の近代建築ベスト50』が初めての著書。

デイリー新潮編集部

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