24歳で亡くなった天才建築家・立原道造 残されたスケッチを基に建てられた「ヒアシンスハウス」の魅力とは

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ヒアシンスハウス(埼玉県さいたま市)

 地元の人にとっては見慣れた存在。でも歴史を知ると、かなり立派な名建築であることがよくわかる「身近にある意外な名建築」をご紹介する本連載。第1回の刑務所とは打って変わって、いつでも誰でも気軽にアクセスできるものを『日本の近代建築ベスト50』(小川格・著)からご紹介しよう(以下、同書より)。4回目の今回は、さいたま市内にあるヒアシンスハウスだ。

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 立原道造(1914~1939)は叙情的な詩人としてよく知られているが、24歳の若さで世を去っている。たくさんの詩を残し、多くの人に愛されたが、職業として目指したのは、建築家であった。しかも、東京帝国大学の建築科に入り、設計の優れた学生に与えられる辰野賞の銅賞を連続受賞していた。

 立原の1年下には、丹下健三、大江宏、浜口隆一という戦後大活躍する建築家・建築評論家がいたが、彼らにとって、立原は常にあこがれの的であった。

 その立原が夢に見た自分のための別荘。それがこの「ヒアシンスハウス(風信子荘)」である。

 立原は身体が弱く、卒業後、石本建築事務所へ入ったが、翌々年には結核のため亡くなってしまった。つまり、建築家としての作品は残さなかったといっていいだろう。

 しかし、自分のための小さな別荘を持ちたいという気持ちは強く、何度もスケッチを繰り返し、友人にも図面を送り、そのスケッチは50枚にも達したという。

 彼の夢は没後65年にして、ついにかなった。強い想いは実を結ぶものである。

 そのきっかけは、立原がその敷地として、埼玉県浦和の別所沼を想定していたこと。そして、没後64年後にさいたま市が政令指定都市になり、別所沼公園が埼玉県からさいたま市に移管されたことであった。

 これを記念して、ヒアシンスハウスを造ろうという機運が高まり、全国から寄付を募って、約千人の募金を集めついに実現したものである。

 立原が残した簡単なスケッチを実現するためには、多くの建築家の協力があったことは言うまでもないが、現地を見て、じつによくできているのに感心した。立原のスケッチを見るとトイレはあるが、キッチンも浴室もない。従って、住宅とはいえない。小屋である。

 そういえば、ル・コルビュジエが最晩年に愛用したカップ・マルタンの休暇小屋もトイレはあるが、キッチンも浴室もない小屋だった。

 カップ・マルタンは大成功した世界的な建築家の休暇小屋だったが、ヒアシンスハウスは何の実績もない駆け出しの若い建築家の夢にすぎない。

 にもかかわらず、そこにはじつに多くの共通点がある。ともに大都市の喧噪から逃げ出すための小さな小屋だった。

 立原道造が長生きしていたら、どんな建築家になったか。多くの人が考える謎である。ある人は丹下を上回る大建築家となって活躍したといい、また彼の詩的イメージに共感している人は、フィンランドのアールトのような建築家になったに違いないという。

 丹下たちが、ル・コルビュジエに心酔して日本の近代建築の流れをつくっていったのに対して、北欧の建築雑誌を購読していた立原は、反ル・コルビュジエ、親アールトの、自然を愛するヒューマンな建築を目指していたのではないかと想像してみたくなる。

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小川 格(おがわいたる)
1940(昭和15)年東京生まれ。法政大学工学部建築学科卒。新建築社で「新建築」の編集を経て、設計事務所に勤務。相模書房で建築書の出版に携わった後、建築専門の編集事務所「南風舎」を神保町に設立、2010年まで代表を務めた。2022年1月現在は顧問。『日本の近代建築ベスト50』が初めての著書。

デイリー新潮編集部

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