長女の帰宅直後に一家4人が惨殺 巖さんは「寮で寝てたら専務の家が火事になった」【袴田事件と世界一の姉】

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 英国の人気バンド「ビートルズ」の初来日で日本中が沸いた1966年6月29日。その翌日の未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で「こがね味噌」の専務一家4人が惨殺された上に、自宅が放火された「袴田事件」が発生した。その夏、袴田巖さんが殺人、放火などの容疑で逮捕されたことで、33歳のキャリアウーマンの姉・袴田ひで子さんの人生が暗転する。(連載第8回・粟野仁雄/ジャーナリスト)

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 2022年1月8日土曜日の昼過ぎ、浜松市の袴田ひで子さん宅を訪ねた。えらく賑やかで、ひで子さんが自宅にあるカラオケセットのマイクを握って『淡海節』や『あざみの歌』を朗々と歌っていた。この日は、地元浜松市の支援者による「見守り隊」の新年会だった。

「歌うのは子供の時から大好きでした。美声じゃないけど音感はよかったみたいで、小学校の時は昼休みに、全校の教室の拡声器(スピーカー)で流すために歌を歌わされていましたね」と、ひで子さんは懐かしがる。

 少し落ち着いたかに思えた新型コロナだったが、変異種オミクロン株の出現、急拡大で一転した。そんな不安な世でも、いつも周囲を明るくしてくれるひで子さんは、2月8日に89歳になる。3月10日に86歳になる弟・巖さんのお祝いと合わせて、自宅で誕生日会が催されるそうだ。ひで子さんは「支援者の人たちが祝ってくれるけど、歳なんかもう関係ないですよ。とにかく裁判に勝たにゃ。ワハハハ」と相変わらず豪快に笑う。そんな彼女の人生を一変させた半世紀前の大事件を振り返る。

ビートルズ来日

 敗戦からの復興を世界にアピールしたのは、1964年10月の東京オリンピックだ。女子バレーボールの「東洋の魔女」がソ連を破って優勝したことを筆頭に、体操男子やレスリング、重量挙げ三宅義信の金メダルラッシュ。マラソンでは圧勝のアベベ・ビキラ(エチオピア)、ゴール直前でベイジル・ヒートリー(英国)に抜かれた円谷幸吉の銅メダル。柔道無差別級決勝での神永昭夫とアントン・ヘーシンク(オランダ)の死闘。水泳の男子ではドン・ショランダー(米国)の4冠、女子では田中聡子の力泳(100メートル背泳4位)。陸上男子100メートルでの「褐色の弾丸」ボブ・ヘイズ(米国)の圧巻の速さ。体操の女子ではベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の優美な演技、男子ではボリス・シャハリン(ソ連)の神技の鉄棒……。普及間もないテレビに噛り付いた国民の熱狂ぶりは、昨年夏の東京五輪とは比較にならない。親と見ていた当時小学2年生の筆者が、それらの場面を記憶しているのだから。

 高度経済成長に驀進(ばくしん)していた列島を次に熱狂させたのは、オリンピックの2年後の1966年6月、英国の世界的人気バンド、ビートルズの来日だった。日本航空の法被を着た4人が羽田空港に降り立ち、6月30日から3日間に及ぶ「伝説の武道館コンサート」が行われた。今でこそミュージシャンの「武道館ライブ」は珍しくないが、当時は主催社の読売新聞社の正力松太郎会長が「武道のための神聖な場をわけのわからん連中に使わせるな」と発言して物議を醸した。結局、「ビートルズはエリザベス女王から勲章をもらっている」と聞いて正力氏は納得したとか。

 翌年に『ブルー・シャトウ』の大ヒットを飛ばすジャッキー吉川とブルーコメッツをはじめ、ザ・ドリフターズ、内田裕也らの1時間近い前座の後、タレントのE・H・エリックの司会で4人が登場。『恋をするなら』、『シーズ・ア・ウーマン』、『イエスタデイ』などを披露した、後にも先にもビートルズとして唯一の来日コンサートが初めて開かれたのが6月30日の夜だった。

長女の帰宅直後に惨劇

 コンサートの前夜、6月29日の午後10時頃、静岡県清水市横砂(当時)を通る国鉄(現JR)東海道線に面する「こがね味噌」の橋本藤雄専務(当時41)の家に長女・昌子さん(当時19)が京都旅行から帰宅した。橋本家は清水駅と興津駅の中間に位置するが、両駅からは3キロくらい離れている。閉まっていた表のシャッター越しに「今帰った」と昌子さんが声をかけると、中から「ああ、わかった」と父・藤雄さんの声がしたという。昌子さんは父の家には入らず、祖母と住んでいた近くの社長宅に帰って寝た。

 日付が変わって6月30日の午前2時前頃、「火事だどうー」という大声が夜陰をつんざいた。藤雄さん宅の異変に真っ先に気づいたのは、隣家の国鉄職員・杉山新司さんだった。杉山さんは2階の窓から煙が部屋に入ってきたことで急に寝苦しくなり、家族を叩き起こした。消防署へ急報したのち、橋本家に火事を知らせようとしたが、表のシャッターが開かなかったという。近所の男たちが次々と出てきて、「藤雄さん、火事だぞ、起きろ」とシャッターをガンガン叩いたが反応はない。なんとか開けた(シャッターに鍵がかかっていたのかどうかは後に疑問になる)が、真っ黒な煙で何も見えない。地域の消防団も駆けつけ、とび口などで頑丈な木戸などを壊す。

 味噌工場内の寮に住んでいた従業員の佐藤省吾さんが中へ入ると、シャッターの表口の近くの8畳の寝室では妻・ちえ子さん(当時38)と長男・雅一郎さん(当時14=袖師中学2年)が、そしてダイニング横のピアノ室でピアノの横で二女・扶示子さん(当時17=静岡英和学院高校2年)が、それぞれ倒れていた。妻子3人の遺体は炭化し、顔もわからないほど黒こげだった。昼近くなって藤雄さんが土蔵近くで無残な遺体となっていたのを消防隊員が見つけた。

 猛火に包まれた橋本邸は、懸命の消火作業も及ばず全焼し、午前2時半頃、鎮火した。しかし、8畳間の布団やマットなどに大量の血が残されていたことから、失火による焼死ではないことがすぐに推察できた。さらに、至るところでガソリンの匂いがした。柱時計は2時14分を指していた。

 藤雄さんは、入院中の父で「こがね味噌」の創業者でもある藤作社長(当時68)の一人息子。藤作社長は息子一家の惨劇に、「息子は人に恨まれるようなことは何一つないはずだ。自分は損しても負けておけという私の言うことをよく聞き、決して他人とは争うことはなかったのに」と立ち尽くした。「こがね味噌」は静岡県を代表する味噌製造会社だった。県味噌工場協同組合の稲盛利次理事長は藤雄さんについて、「しっかりした経営と文句のない人柄。袖師(自宅付近の地名)の消防分団長もしており火には厳しかった。火事とは考えられない」などと話した。

「凶悪を通り越し猟奇的」

 4人の遺体は県立富士見病院(現・県立総合病院)と国立静岡病院(現・静岡てんかん・神経医療センター)で司法解剖された。藤雄さんは全身に、火傷の深さで3度の火傷を負っていたが、後頭部、胸部、肩などに15カ所に刺し傷や切り傷があり、死因は「失血死」とされた。致命傷は心臓の12センチの刺し傷だった。妻のちえ子さんは4度の火傷で、背中など13カ所を刺されて、死因は失血と火傷だった。二女・扶示子さんは全身に3度から4度の火傷に加え、胸などに9カ所の刺し傷があり、心臓の傷による失血と一酸化炭素中毒が死因とされた。長男の雅一郎さんは4度の火傷、首、胸、手など12カ所刺されており、死因は肺からの出血などだった。清水署の沢口金次署長は「凶悪犯罪を通り越して猟奇的なものでさえある」とコメントした。

 妻と二女、長男はいつもの就寝場所で死んでおり、大きく家の中を動いたのは犯人と格闘したと思われる柔道2段の藤雄さんだけだった。清水署の一室に「横砂会社重役強殺放火事件特別捜査本部」の看板が据えられたが、犯人は杳(よう)としてわからない。

 幕末から明治にかけて活躍した博徒で実業家の清水次郎長(本名・山本長五郎=1820~1893)で知られ、最近は2013年に富士山世界文化遺産に登録された「三保の松原」などの美しい海岸が広がる港町に一挙に緊張が走った。

たまたま不在だった同室者

 放火殺人事件が起きた夜、巖さんは「こがね味噌」の従業員寮で寝ていた。プロボクサーだった巖さんは、フェザー級で日本6位の成績を残したが、体を壊して引退。バーテンダーなどをした後、バー「暖流」の経営に乗り出したがうまくゆかず、店を畳んでから「こがね味噌」に住み込みで勤めていた。無口で働き者の巖さんを藤雄さんは可愛がった。巖さんは早くに結婚し、一男をもうけたが、妻は男を作って去り、2歳の息子は巖さんの両親のもとで育てられていた。

 従業員寮は相部屋だったが、事件の夜、巖さんと同室の佐藤文雄さんは部屋に居なかった。この頃、藤雄さんの父で社長の橋本藤作さんはリウマチで入院し、同居していた孫の昌子さんは旅行に出ていた。不用心を心配した藤作さんの妻のために、佐藤さんが離れの社長宅に一緒に泊っていたからだ。運の悪いことにこれが後に、巖さんのアリバイ証明を困難にしたのだ。

 火災発生時、寮に住む従業員の佐藤省吾さんは、消防のサイレンで目が覚め、相部屋の同僚を起こして寮の階段を下りた。巖さんの部屋のガラス戸は開いていたが、中は見ずに外へ出たという。2人は工場敷地にある消火ポンプのホースをつなぎ、近くに住む村松喜作さんとともに放水した。

 村松さんは「無事だった土蔵に家の人が逃げているかもしれない」と思い、土蔵近くの物干し台に上った。「バールを持ってこい」と叫ぶと、佐藤さんと巖さんがやってきた。放水で2人ともずぶ濡れで、巖さんは白っぽいパジャマ姿だったと村松さんは記憶していた。遅れて駆け付けた「こがね味噌」の従業員の山口元之さんも、パジャマ姿でびしょ濡れの巖さんが工場に向かって歩いてくるのに出会ったという。

 だが、これらの「アリバイ証言」は警察によって潰されていたことが後に判明する。

職場で知った惨劇

 巖さんの姉のひで子さんは、中学卒業後から13年勤めた税務署を退職し、税理士事務所での勤務を経て、事件当時は浜松市常盤町の「富士コーヒー」という会社に勤めていた。昼休みにテレビのニュースで清水市の異変を知る。

「あれっ、清水のこがね味噌って、巖が勤めてる会社じゃないの。えっ、巖が『よくしてもらっている』って言ってた専務さんが殺されたなんて。巖は今、どうしてるんだろう」

 驚いたが、今のように携帯電話などなく、「こがね味噌」の固定電話は工場にはあるが寮の部屋にはなかった。それでもなんとか連絡すると、巖さんは「寮で寝てたら専務の家が火事になった。強盗だか何だかわからん」などと興奮気味に話した。

 事件のあった週末も巖さんは、実家に預けている幼い息子に会うため、浜北市(現・浜松市浜北区)を訪れ、ひで子さんも実家に戻った。父の庄一さんは50代で「中風(ちゅうぶ)」(脳卒中の後遺症)を発症し、寝たきりで口もきけない状態だった。

 もちろん家族は巖さんが犯人だと思うはずもないが、怨恨としか思えない橋本一家の惨殺ぶりに、ひで子さんや母のともさんは、「巖が変なことに巻き込まれていなければいいけど」と心配していた。しかし、巖さんが近所の人に、「寝てたら専務の家が火事になった。みんなで必死に消したけど、どうしようもなかった」などと話す普段と変わらない様子に、ひで子さんやともさんは安心した。

「弟のために結婚を断念した」わけじゃない

 しかし、その後、巖さんが殺人、放火などの容疑で逮捕されたことで、33歳のひで子さんの人生は一転した。それまでの彼女の人生を振り返ろう。

 ひで子さんは20歳で恋愛結婚をしたが、21歳で別れてしまう。

「まあ、性格の不一致でしたね」

 その後、周囲からは「しょうもない男でも男は男だから」と再婚を勧められた。しかし、ひで子さんは「しょうもない男なんかと結婚なんかできるか」と突っぱねていた。

「事件の後、『弟のために結婚を断念した』なんてよく言われたり書かれたりしていたけど(筆者もそう書いたことがある)、違うんですよ。巖には関係なく、結婚なんかアホらしくてしてられるか、という気持ちでしたね」と笑って振り返る。

 母のともさんは再婚を望んだが、ひで子さんは母親に対しても強い。ともさんは日頃、ひで子さんの兄嫁について洗濯物の干し方がなっていないとか、鍋の蓋の仕方が悪いとか、愚痴をこぼした。ひで子さんが「じゃあ洗濯物は乾かなかったの?」と訊いたら「乾いたよ」。「鍋はちゃんと煮えなかったの?」と訊いたら「煮えた」。ひで子さんは「そんなら十分でしょ。つまんないことをごちゃごちゃ言わないで」と、母を「叱咤」したという。

男たちと麻雀

 ひで子さんは、一歩外に出れば優秀で豪快なキャリアウーマンでもあった。中学を出てすぐに務めた税務署を退職した後は、民間の会計事務所に勤めた。その後、浜松市常磐町の「富士コーヒー」という会社で主に経理を担当し、優れた能力を発揮していた。さらに、社長に紹介された経営者から経理帳簿を預かり、経理を代行した。

「商売人たちは人付き合いは上手でも、細かい経理が苦手な人は多い。私は税務署や税理士事務所にいたから、そういうのは得意。1件当たり3万円とか5万円とか。ずいぶん稼がせてもらいました」

 遊ぶ時は男性とばかり付き合っていたという。

「女の友達はいろいろとややこしい。男のほうが性に合っていた。独身で週末には行くところもない男連中をアパートに集めては、毎週、麻雀を楽しんでいましたよ」

 高度経済成長期とはいえ女性の社会進出は稀で、「女は早く結婚して家庭に入るべし」との社会通念が強かった昭和30年代である。ひで子さんは当時、破格の「飛んでる女」だった。

「20代から33歳までは、本当に青春を謳歌して、好き放題やっていましたね」

 世を震撼させた放火殺人事件は、そんな最中に起きた。事件の後、巖さんは「警察が近づいてきて『中瀬の神社はどこですか?』なんて聞いてくる。どうも俺を尾行しているみたいなんだ」などと話すようになった。中瀬とは実家の地名だった。

 それでも、ひで子さんや母のともさんは「あれだけの事件だからね。警察は一応、従業員全員を疑ってかかり、みんなが尾行とかされているんだろうよ」などと話し、さして気にもしていなかった。だが、次第に雲行きが怪しくなってゆく。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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