日本兵が戦地に携行した「寄せ書き日の丸」が“返還ラッシュ”の理由 遺族と返還者が感じる“癒やし”

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旗を所持したのは敵を軽蔑するためでなく…

 硫黄島の戦い――その苛酷さは激烈を極め、敗戦国日本だけでなく、戦勝国アメリカにとっても、最も大きな損害を出した戦闘の一つとして記憶されている。

 地獄をくぐり抜け生き残った一人。それが彼の父、フレッド・シニアだった。

 彼は続けた。

「一度も会ったことのない人間が、自分の命を狙っている。そして殺し合う。全く無益なことです。旗そのものは、敵国のシンボルです。でもそれは、戦利品として価値があった」

 妻サンディーが助け舟を出す。

「Victory(勝利)のシンボルですね」

 日本兵は脅威だった。命を惜しまず突撃してきた彼らを米兵は恐れた。沖縄戦でもそうだったが、多くの米兵が肉弾戦の末に戦争神経症になり、戦線を離脱した。敵が恐ろしければ恐ろしいほど、そこを勝ち抜き生き残った証の価値は上がる。彼の言葉から、戦利品の価値の意味が伝わってくるようだった。

「父は日本人を軽蔑し辱めるために日の丸を所持し続けたのではありません」

 その証拠に、フレッド・シニアは、持ち帰った旗を飾らなかった。それは大切にしまわれていた。彼が他界したあと、その家に住む孫で、フレッド・ジュニアの息子ブライアン(30)が、つい最近見つけたものだ。戦場で使用していたと思われるGIバッグの底に綺麗に畳まれていたという。

 誰かに自慢するためでも、敵を蔑視するためでもない。ただ自分が生き残ったという確かな証拠。それは環境が苛酷であったからこそ、また敵への恐れが大きかったからこそ価値があった。

硫黄島帰還からPTSDに

 戦後、フレッド・シニアは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患った。クリント・イーストウッドが監督を務めた「硫黄島」の映画2部作が封切られたとき、彼は周囲の反対を押し切り、どうしても見るのだと言って映画館に足を運んだ。しかしその直後から悪夢を見るようになった。ジョン・ウェイン主演の映画「硫黄島の砂」が封切られたときも、内容に不満を感じていたという。

「史実と違う。典型的なヒーロー映画になってしまっている」

 まるで父本人であるかのごとくフレッド・ジュニアが述懐する彼の一言一言に、硫黄島にいた父の手記を読んだ者の重さが伝わる。退役軍人の息子が代弁しようと努める父の思いからは、戦勝国の驕りは微塵も感じられない。

「2万人以上の日本兵が戦死し、殆ど生き残らなかった戦いで、その中の12人を救い本国へ送り返したことは、自分がなしたことの中でベストなことだったと、父はいつも語っていました」

 フレッド・シニアは戦後、12人に会いたいと願い、写真から身元を探ろうとしたという。だが日本では生き残るのは不名誉とされていたから、その写真は絶対に公にならないだろうと言われ断念した。しかしフレッド・ジュニアは言う。

「私が旗を返したいと思ったことに、父は真っ先に同意してくれると思います」

 彼は、生き残ったことの尊さや、家族への愛を共有したいと願っていたのだ。

 それが叶わず世を去った父の無念は、この旗を持っていた日本兵の遺族が見つかることで晴れるだろう。

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