袴田巖さんに異例の支援を続けたボクシング界 輪島功一さんが振返る裁判所への怒り【袴田事件と世界一の姉】

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「ボクサーくずれ」の蔑称

 筆者の手元に、静岡県警本部刑事部の捜査一課と鑑識課による「清水市横砂会社重役宅一家4名殺害の強盗殺人。放火事件捜査記録」という袴田事件に関する報告書の写しがある。この報告書冒頭の「事件の要旨」にはこう書かれている。

「全国でも例を見ない油質の鑑定に成功する等科学的捜査の結果、被害者方工場の住み込み従業員で、“ボクサーくずれ”の被疑者を検挙し、県警察の威信を大いに高揚した事件である」(引用内の括弧は筆者)。

 油質とは放火に使われたガソリンのこと。鑑定で袴田さんが持ち込んだとされた(この鑑定の不自然さは後日説明する)。今なら公的文書に「ボクサーくずれ」などと書いたら大問題だが、当時は当たり前だったのだ。こうした風潮の世で無実の巖さんが逮捕され、ボクシング関係者の怒りに火が付いた。リング上で相手をぐらつかせてもKOチャンスに追い込むことができない巖さんの「優しすぎる性格」を知るボクサー仲間は、「恨みもないのに無慈悲な殺人が、あの男にできるはずがない」と信じていた。ひで子さんは振り返る。

「郡司さん(郡司信夫氏=ボクシング評論家)に言われたのかもしれないけど、ファイティング原田さん(78=本名・原田政彦)も最初の再審請求審の頃から静岡地裁にも駆けつけてくれていましたよ」(同)

 バンタム級、フライ級と日本人初の2階級での世界王者となった原田氏は戦後ボクシングのヒーローだ。国民を熱狂させたエデル・ジョフレ(ブラジル)との死闘(1965年)は、袴田事件の前年である。ボクシング界が巖さんを本格的に支援したのは1970年代の控訴審の終わりの頃からだが、彼らは事件後、メディアにも多く見られた「ボクサーくずれ」の蔑称にも腹を立てていた。当時、ボクシングは、貧困家庭の男が拳ひとつで身を立てるハングリースポーツの代表格で、偏見や差別もあった。

 ひで子さんは「あの頃は、郡司さんと松永さん、前田さんが頑張ってくれていました。支援活動が盛り上がらなかった頃も、佐々木さんが頑張ってくれていました」と振り返る。

 松永さんとは松永喜久(きく)氏。1912年(明治45年)生まれで1998年に亡くなった日本初の女性のプロボクシングプロモーター、スポーツライターとして活躍した人物だ。80歳を過ぎても現協会会長の大橋秀行選手(WBC・WBAミニマム級王者)のタイトルマッチなどをリングサイドで取材している。

 前田衷(まこと)氏は1948年、静岡県生まれ。『ボクシング・マガジン』初代編集長で、82年に『ワールド・ボクシング』を創刊、『ボクシング・ビート』の編集長も歴任した。現在も『Number』などで健筆を振っており、「ボクシングの生き字引」としてボクシング関係者の信頼も厚い。

 佐々木隆雄氏はトクホン真闘ジムの会長。巖さんの死刑が確定していく過程でも支援の灯を消さなかった。

 1980年11月19日、上告棄却で死刑判決が確定した最高裁では、金平正紀ボクシング協会元会長、ファイティング原田氏、郡司信夫氏らが法廷に並び、怒りの声を上げたのだ。

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