高知東生のいま 本人が語る「歌手の鞄持ち」「小説執筆」「自助グループ」参加

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「丈二、私綺麗かな」

 その後、彼は薬物依存症治療の第一人者とともに治療に取り組み、自叙伝『生き直す 私は一人ではない』(青志社)を書き下ろし、事件の前まで隠してきた、できすぎたシナリオのような過去の多くをさらけ出した。

 地元・高知県では誰もが知っていた任侠(にんきょう)の男の子供として生まれ、抗争の中、目の前で母親が刀で切られる姿を目撃した。幼少期から誰かに素直な感情をさらけだすことができずに育ち、彼が17歳のとき母は自殺。その直前のことである。母は野球に打ち込んでいた息子に車で会いにきた。

「丈二(高知の本名)、私綺麗かな」

 そう聞かれたのが最後の言葉になったという。このとき、高知は照れもあって「綺麗」だとは言えなかった。

 やがて、彼は何かをつかむために上京する。高知にとって、東京は成り上がるための都市だった。ひょんなことからモデルの真似(まね)事をやるようになり、これも偶然の出会いからAV業界でのし上がり、やがて20代後半で芸能界へ飛び込む。

 壊れた家族しか知らない自分、常に誰かと比べ、稼いだお金が自分の価値だと思い「豪快に、男らしく」生きること。武勇伝がそこかしこにあった昭和の芸能界は彼の考え方も、生き方も受け入れてくれた。だが、弱さまでは救ってはくれなかった。人間関係は荒れていき、逮捕へと至る。

 公判を機に付き合う人たちが変わったことで、彼の価値観は変わっていった。治療を担当した精神科医の松本俊彦、高知の活動をサポートする田中紀子(公益社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」代表)、「歌の師匠」と呼ぶ歌手の清水節子、そして自助グループの「仲間」たち。彼らと人間関係を構築した時間は、そのままイコールで壊れかけた人生から回復するための時間だったとも言える。

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