【袴田事件と世界一の姉】巖さんに名誉チャンピオンベルト 30年支援したボクシング界の功績

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冤罪問題で世論が高まった時期と合致

 2013年8月、新田氏ら支援委員会は、釈放後にいつでも巌さんが試合を観戦できるようにと、後楽園ホールに恒久的な特別席「袴田シート」を据えた。この年にタイで開かれたWBCの総会で署名活動も行った。「再審開始か」と盛んに報道されていた2014年2月には、静岡地裁にボクシング関係者30人が訪れて再審を申し入れた。まさに劇的な再審開始・釈放の直前のことだった。

 2008年3月に最高裁で再審請求が却下され、巖さんが2度目の再審請求を申し立てた頃、世間では冤罪事件が次々と大きなニュースになり、捜査機関への批判が高まっていた。

 2009年には、1990年に起きた幼女殺害事件「足利事件」で無期懲役となり服役していた菅家利和さんが、DNA鑑定の結果、無実と判明。2010年に再審無罪となり釈放された。2011年には、「布川事件」(強盗殺人)で杉山卓男さんと桜井昌司さんに再審無罪が言い渡された。いずれも無期懲役刑で、菅家さんは再審開始によって18年ぶりに釈放、杉山さんと桜井さんは仮釈放までに29年間服役した。また「布川事件」では、取り調べの録音を茨城県警が都合よく編集していたことも判明した。

 鹿児島県警のでっち上げの選挙違反事件「志布志事件」は、2007年に鹿児島地裁で全員が無罪となった。この年の夏には、富山県で強姦事件と未遂事件が相次いだ「氷見事件」で、別の強姦事件で逮捕された男が真犯人と判明し、同事件で服役した柳原浩さんが再審無罪となった。映画『Shall We ダンス?』(1996)などで知られる周防正行監督の痴漢の冤罪をテーマにした映画『それでもボクはやっていない』も年初に公開され話題となっていた。

ボクシング界の支援がひで子さんの力に

 現在、日本プロボクシング協会は袴田事件をわかりやすく解説した漫画『スプリット・デシジョン』(制作・日本プロボクシング協会、袴田巌支援委員会/作画・森重水/協力・日本弁護士連合会)をHPのトップで紹介している。スプリット・デシジョンとは、試合で3人の審判の判定が割れること。本連載では後日詳述するが、1968年の静岡地裁判決の一審判決では、3人の合議で熊本典道裁判官だけが反対したものの、1対2の多数決で袴田巌さんは死刑判決となった。見事なタイトル命名だ。

 ボクシング界の献身的な支援について、ひで子さんは「輪島さんはとても面白い人でしたね。何度か一緒に拘置所にも通ってくださっていたのですが、拘置所側から巖には一度も面会させてもらえなかったんですよ」と振り返る。代理授与については「支援イベントを企画してくださっていた大橋会長の事務所の八重樫選手や井上選手などとも親しくなりました。当時、巖がいつ退院してくるのかもわからないし、ボクシングの大事な試合なんかの予定にも特別イベントを合わせなくてはならないので、とりあえず私が代理で受け取ることになったんですよ。ボクシング界の人の気持ちが本当に嬉しかったですね」。そして「プロになってからの巖の試合を観戦したのは清水市での一度だけでした。勝ったのか負けたのか、忘れちゃった」と笑った。

「本人不在」で姉がチャンピオンベルトを授与されるというのも妙な話かもしれない。だが、2014年3月27日の劇的な再審開始決定と釈放直後の印象的なイベントは、獄中の巖さんを必死に支援してきたボクシング関係者たちにとって「待ちきれなかった喜びの爆発」だった。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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